川面先生御生家の写真に就いて(前号よりつづく)
川面先生御生家の写真に就いて(前号よりつづく)
飯峰生
豊前周防灘に於ける先生最初の大寒禊
この時分、馬城山中の洞窟の中に、土地の百姓や樵夫どもから「岩屋の先生又は天狗或は仙人」などと呼ばれてゐた白髪童顔の熱誠な一人の修道家が住んでゐて、火で炊いたものなどは一切喰べず、木の実や草の根を食に充てて岩汁の清水を飲んで岩窟の奥の夜のやうに暗い岩の蔭に独り寂しく住んでゐて、この山の主人童仙について古神道の研究を続けてゐた。
世の人の語る所に依れば、彼は年中この山に住んでゐる訳ではなく、半月ここに居て道を修めては烟の風に追われるやうにヒョイとこの地を去って半月は富士山の洞窟に来て神道を究め、神道について不振のかどが起こって来れば、また馬城山の洞窟に帰って来て童仙に道を学び、今度はまた鞍馬、御嶽三峯或いは筑波山などにも居を換へて修行してゐたが、彼は本来いづこの者であったかと云ふと水戸の藩士でも相当な家格を有する名門の第三男としてこの世に生まれ出た得多某と云ふ人であったが、彼は年少の頃から藩校弘道館に学んで皇学を修めたのが本で神の教を信ずること深くなり、猶諸方面に渉って広く神道を研究する中、宇佐神宮の後方馬城山中に神道の達人一童仙の住んでゐることを知り、彼に就いて、神道上の不審を遺憾なく究明する為に遠く郷土を去って、豊前の端まで来たのであったが、尚彼に就いて記すべきことは、彼は非常な慷慨家で国を憂ふるの念深く、且又藩中でも屈指の剣客であったところから万延元年桜田門外の変に際しても彼は一個の棟梁として事にあづかったところから、その後彼は上の我を索むるの手の厳びしかったところから、一方に於いては神道の研究を目的とし、一面に於いてはまた事の急を避ける為に藩を逃亡して、姓名を変じ馬城山中の洞窟に行って来て仙人として身を忍ばせ里人に顔を見せたり、言を交はしたりすることは極めて稀であったさうである。
さて千秋翁はその山の麓の宇佐に生れた人で、山の案内にも至って精しく、或る時宇佐の神職の一人から得多翁に就いての話を聞いた後は、我も是非一度その人に会って神道上の教を乞いたいものだと思ひ前後十数回も山に上って彼を探した後、或る時の秋、空は一面群青色に晴れ渡って、満山の木の葉深秋の霜を浴びて赤く紅葉した頃の事に、一日岩屋の附近の松の老木の下で初めて彼に出会ひ、名を通じたのが始まりで、それから二三年の間も引きつづけて毎月二三度づつも、彼を訪問して談話を交換してゐる中に、いつしか懇意になり、果ては一緒に歌を作ったり、又は詩を賦したりして相楽しむやうになり、或る時の如くは彼の方から進んで長洲の我が家に尋ねて来て、快く二三泊もして山家住いの面白さや神の道の尊さ、有り難さなどをさへ向ふからむしろ進んで話して聞かせるやうにさへもなって来た。
或る時翁は、この童仙から禊の話をして聴かされて大いに心動き、「それではわしも是非一度あなたに附いて、禊の仕方を授けていただきたいと思ひますが、先生いかがでせう」と頼んで見たら、童顔の人はうなづいて、「それでは宇佐の神職の人々の中にも一度禊をして見たいと望んでいる人が少なくありませんから、その人達を一団体にして一度禊をして見ることに致しませう。幸い、あなたの家は海岸に近くて朝夕の潜海にも都合よく、これが一つは何よりの便利ですから、ホンの仮普請でよろしいから裏の空地に御神殿を建て、その前に人の二三十人もはいって坐られさうな拝殿を設け、禊の志望者を呼び集めてこの寒中にでもやって見なさったがいいでせう」と答へて、志望者の姓名を記して置いて山に帰って行かれたので、修道に熱心な千秋翁は自分の手習弟子の一人に松井某と云ふ宮大工のあったのを幸い、早速彼を呼び附けて、ホンの仮普請でいいから新しい木材で一宇の御神殿とその前に拝殿を建ててもらふやうに頼み、翁自身は非常に貧乏なので建築費のところは一時町の産土神社の神職の手許から立替へてもらうことにして、早速工事に着手させることにした。
大工は小悧巧な要領のいい男であったので、我が手習い師匠の翁から頼まれたところを善く呑み込み、第一の条件としては一日も速やかにこの工事をものの間に合うやうに造りあげること。また第二にはホンの仮普請でよろしいから一文でも多く費用のかからぬやうに建て上げること、この二ヶ條に彼は最も意を用ゐて工事にかかったが、一つは全く指揮のよろしきを得た為に、勿論荘厳とまでは行かなかったが、兎にも角にも余り長くない時日の中に、ものの役に足りるだけのお宮と拝殿とが小器用に清らかに出来あがった。
翁はこれを見て大いに喜び、早速書面を書いて一人の男に持たせ馬城山中の童顔の人の許に走らせて、工事の出来あがったことを急報すると、翌日早速山を出て検分に来られたが、新築を見て手を拍って喜ばれ「恐ろしく早く出来上がりましたな。ハアこれでも結構です。一同の人が真心を込めてさへ行ればどんなにも結構に禊の効果をあげることが出来ますから、それでこの大寒に是非一度修行することにしませう」と云って、また山に帰って行かれたが、始禊祭の朝はまたまた山から出て来られて一切の準備に力を盡されて、最早人さへ集まれば何時でも始禊祭を執行することが出来るやうになった。
人々の助力に依って、折角事がここまで滞りなく運んだので、かねて修道に熱心な千秋翁は、出来ることならば、今日此の際何とかしてこの人から禊の伝を直接に伝え受けておきたいものだと思ひ、早速筆を執って三、四十通の書面を書き修禊志望者の同志の下に各自使いを立てて「馬城山の先生ご指導も下に今夕から当方に於いて大寒禊を修行することになったから、ぜひ貴殿にもご参加を願いたい」と云ふ文面で誘導して見ると、その多くは宇佐から、或は又各地方の有志者からも希望の人が少なくなく、二三十人も集まっては来たが、この大寒中に一週間も薄い粥を啜りながら塩を甞めてゐて、朝夕二回事に依っては夜間に亘ってまでも潜海して行事に当たらねばならぬと聞いては、尻込みする人も一人や二人でなく、終には殆どその半数以上も皆何らかの口実の下に「今回は先づ見合わせにして、又の時節を待って修行することにしやう」と皆体よく断って逃げて仕舞った。
千秋翁はこの不体裁極まる有様を見て、心中大いに憤ったが、人のいやと云ふものを無理に威圧して行わせる訳にも行かぬので、困った立場におち入ったが、さればと云って、このままやめにして仕舞っては第一は白髪童顔の人に対しても面目なく、また第二には同志の人々に対しても肩肘を張って胸を反らす訳にも行かぬので、せめて我等親子だけなりとも、是非修禊しなければならぬ行きがかりになって来た。
そこで翁は潤太氏を一室に呼んで事の行きがかりを一わたり聞かせ「かうなるからにはせめてわしとお前だけなりとも此の際修禊せぬことには神様に対しても恐れ多い次第であるから、お前も一番是非奮発してここは禊をしてもらはねばならぬ」と云って聞かせると、こころよく承諾して「ハイ私はお父さんと一緒に是非行らせていただきます」とむしろ進んで男らしく答へた。
これを聞いた翁は幾分気色を直してゐられると、今度は恒坊少年が進み出て「伯父さんわたしもどうか是非一緒に、その禊とか云ふことを行らせて下さい」と云って頼むと、翁は一度うなづかれたが「イヤお前はまだ子供の事だから、も少し大きくなってから伯父さんが一緒に行ってあげるから今度のところは、やめにして置いたがよからう」と云って止めて見ると恒坊は声を放って泣き出し「どうしても是非一緒に行る」と云って聞かぬので、翁も終に決心して少年の望みを叶へてやることにはしたが、心の中には勿論この子が無事に一週間の行事に耐へられやうとも思ってゐなかった。
今年八歳の恒坊少年が神の面影を拝する為に、いよいよ禊を遣ら行ると云ふことを聞いて、これに奮発させられたものか、豊後高田の熱心な四十男の神職が一人奮って加はることになり、翁父子親子と恒坊少年とその神職との都合四人で、いよいよこの日の夕方から禊の行事に参加することになった。始禊祭の終わった後で道彦の指導者は先づ日本人と禊の行事についての歴史を一通り話し、次には修禊中の心得、修禊後の注意点など懇々と話して聞かせた後で、いよいよ定められた行事を始めることになったが、これまでいろいろな難行をつづけてきた千秋翁の如き人に取ってさへも楽な仕事ではなかったので、まだ何事もかうした信仰上の心肉鍛錬を試みたことのなかったその一神官殿の如きは、中日後は急に弱って、振魂をする手の運びの如きも甚だ不如意になり、潤太氏の如きも終には中日後は大いに弱って、母の注意に余儀なくせられ、終に行事を廃することになったが、ひとり恒坊少年のみは伯父の千秋翁をも凌ぐほどの勢いで、朝夕二回の潜海は愚か、夜間の潜海にも非常な元気で何の気遣はしいかどもなく、心身倶に極めて健やかに行事をつづけて、彼に依って称へ奉られる大御名は天にまでも聞こえるやうな音調があり、雄詰び雄健ぶ声の如きは、これが子供の声かと思はれるばかり荘重神聖であるので、道彦の白髪童顔の人を始め、千秋翁の如きも彼の雄健雄詰の声を聞いては、思はず粛然として貌を正し、両眼に涙をさへ浮かべて、時によっては我が幼き甥のかうがうしい面影に、我知らず頭を下げて敬意を表することもあったさうであるが、これらのことが、終にその素因をなすに至って、将来我が大日本皇国に長く廃れてゐた禊の行事を再興し、国民一般に向かって我が古代の神道を説いて聞かせて、万事の上に於いて十分に天賦的壮大勇猛な国民性を発揮させるやうになるであらうとまでは、恐らく知ることは出来なかったであらう。
この時恒坊少年が伯父さんに書いていただいた大祓の一通は、その後守袋に入れて首かけられ、将来神聖に保存されてをったが、彼は昭和四年片瀬の大寒禊から、その終焉の土地である大久保本部に帰られる際に於いて、上野秘宮に立ち寄ってそこに一泊された際、彼は既に我が身の世の終わりに近づいたことを予知されたものか彼を神の道に導いたこの思ひ出の多い守袋を始めて、我が肌身から静かに解き放して御神殿に納め、その上には自著の天照大神宮の一帙を置いてあったと云ふことである。
この一篇中の事実の多くは先年予が先生の従兄池田達二氏より川面家の本家で直接聞きたる筆記に拠ったものである。
(完)