川面凡児先生年譜
1862(文久2年)大分県宇佐郡小坂村(現在の大分県宇佐市院内町)に川面仁左衛門の次男として生まれた。幼名を隆司と呼び後恒次と改め、更に凡児と改称す。
1876(明治9年)15歳 馬城山に入る
1878(明治11年)17歳 鴛海涵養塾に学ぶ
1882(明治15年)21歳 熊本県益城郡隈庄町に稚竜同盟谷を開き子弟を教育す
1885(明治18年)24歳 上京、仏教研究、および文筆業
1901(明治34年)40歳 このころより専心大日本世界教発表の準備に着手す
1906(明治39年)45歳 稜威会設立
1907(明治40年)46歳 本部を谷中初音町に移転
1909(明治42年)48歳 相州片瀬(現在の神奈川県藤沢市片瀬)にて寒禊を実施
1914(大正3年)53歳 古典攻究会設立
1916(大正5年)55歳 本部を上野桜木町に移転
1921(大正10年)60歳 社団法人稜威会申請許可
1923(大正12年)62歳 本部を大久保に移転。
1929(昭和4年)68歳 2月6日より病臥。2月23日帰幽
「祖神の垂示(そしんのすいじ)」の考え方
川面凡児先生は、日本神道を研究し理論化、体系化したものを「祖神の垂示」と名付けられました。
「祖神の垂示」は非常に膨大な体系で、神観、霊魂観、世界観、国家観、人生観等様々な面を持ちます。
祖神の垂示によれば、人間は神の子であり究極的には神そのものです。それは、人間の本体が直霊(なおひ)と呼ばれる神の分霊であるからです。しかし、単に本を読んだり講演を聴いたりするだけではなく、禊の行を実践することによって人間として進歩・成長し直霊(なおひ)の開いた人になっていくのです。