川面先生御生家の写真に就いて(前月号よりつづく)

川面先生御生家の写真に就いて(前月号よりつづく)

 

飯峰生

 

先生千秋翁の手引に依って御神縁を結ぶ。

既に少年の頃からして、その性、道を求むることに切であった恒坊少年は、その時伯父さんの千秋翁が、「わしが今度宇佐に参宮した時、本を買って来て祝詞の読み方をお前に教へてあげるやうにしやう」とあきらかに答へたので、一方祝詞の読み方を一日も早く覚えたいと思ってゐる少年は、その御伯父さんが宇佐神宮に参拝される日を心の中に待ち構へてゐても、伯父さんは公私の用に毎日いそがしく過ごしてゐて、この分ではいつになったら宇佐に出かけるとも知ることが出来なかった。

そこで少年は終に待ちあぐんで、或る日のことまた伯父さんに向かひ、「伯父さん私にどうか祝詞の読み方を早く教へて下さい」と云って頼んでせついて見せたら、何と思ったものか、伯父さんは潤太氏を呼ばれて、「それでは潤太、お前チョッと町に出て新しい水筆を一本と美濃神を一帖、それに墨も一本買って来てお呉れ、わしは今日これから大祓の詞を二枚写してこの児に教へてやらねばならぬから」と言ひ附けると潤太氏は速やかに表門から町の方に出かけて行った。

彼はやがて父に命令された程の物を速やかに買ひ調へて来ると、翁は水行場に行かれて再び裸になり、釣瓶の水を汲みあげて全身に四五杯もかぶって身を潔めた後、家に戻って着物を着換へ、冠をかぶって御神前に端座せられ、ヒシヒシと耳響きする程の音を立てて全身誠の結晶となり、その声天にも届けよとばかり、いとも静かに先づ一とわたり大祓の詞を誦された後、御神前の椽側に近い北向きの雪白な障子の下に机をすゑて、その上に紙を延べ、やがて墨を磨りおろして、新しい筆に含め最初の行にやや筆太く大祓詞と三字顔真卿流の筆蹟見事に記された後、行を改めて、高天原爾神留坐と云ふ所から恐美惶美毛白作久と云ふ所までを二通、眼も覚めるばかりの見事な筆蹟で注意深く書き終られた後、その一通を先生に与へられ、残り一通は我が懐に納れて、年少の求道者に向かひ、「恒次や伯父さんが今日お前に云ふことを生涯忘れぬやうにしてゐなさいよ。人間は正直な正しい心を以て朝夕この大祓を読んで居れば、その人はいろいろな幸福に恵まれる事はあっても、決して不慮の災難などには出会ふものではないからして、お前一度この祝詞を読み覚えた以上は、朝夕拝神の際は申すに及ばず、お前の身に喜びあれば喜びに附け、また悲しみあれば悲しみに附け、お前の身辺に起って来る所の總てのことに附けてこれを読んでお前の身を祓へ清め、またお前の家を祓ひ清め、或はまたお前の住んでゐる所若しくはその国家をも祓ひ清めなければならんぞ」と子供の耳にも分かり易いやうに懇々説いて聞かせた後、再び御神前の席に復して、「それではわしが今ここで一度声高に読んで聞かせるからお前は今わしがあげたのを見ながらよく聞いておゐで」とことわられた後、翁は再び容を正して御神前に向かひ、その一声一声はヒシヒシと耳に響くほどの音を立てて八平手を拍たれて二拝された後、正直な人の声は自然と高く、また一とわたり音吐朗々と大祓を誦せられると、少年はさも喜ばしさうな顔をして両眼には感謝の涙さへ浮かべ、我も伯父に劣らぬ至誠の人となって、その一声一声を我が身の血となし、肉となすやうな熱心さを以てひた聴きに聴き入ってゐたのであった。

水は低い処に流れて行き易いやうに、日は稲硝に導かれ易く、人はまた自然と、その天性の在る所に落ちて行き易いものだと云ふ古人の語を、このなまけものの大いたづら小僧は当時溝口家に於いて実現して先づ伯父夫婦の人を驚かすことになったさうである。

伯父は熱烈な修道者であった所から、この少年の世上普通の少年とは大きに趣を異にしてゐる所を見て少なくない興感を感じ、その喜ばしさうな子供の顔に釣り込まれたやうな形になって、前と同一の方法を取って更に一層の誠意を込め、一層力強い声を以て、この日三度相前後して、大祓詞を一句は一句より明瞭に真心込めて読んで聞かせると、不思議なるかな不断は物覚えがわるくて而も忘れ勝ちの少年恒坊、この日は僅か三度聞いたばかりで、どうにか大祓を読み覚え、まだ一句一句ハッキリと声高には読むことが出来ないが、とに角どうにか大体に於いてはおぼろげながた読み得るやうになったので、賢明なる伯父は早くもその性の在る所を見て取って、今度は字附きで一字一字写を指して一句一句口移しに尚ほ二回読んで教へてやると、少年はそれでもう終に明確に大祓を覚えて仕舞って、その日夕方の拝神時には伯父や従兄と一緒に一句一句力強い声で大祓を読み得るやうになり、夜間床に入って寝てゐてもムクと起き上がって床の上に坐り姿勢正しく身を構へてこの大教典の或る部分を音調高らかにハッキリと読み上げるやうになったので溝口家一家の人々は皆驚嘆して彼に幾分づつの敬意を払うやうな形になってきたさうである。

その翌朝翁は東の空の白むのを待ち受けてゐて、いさぎよく床を離れ、いつものやうに潤太氏を引き連れて水行場に出て見ると、恒坊少年は、既に早くもここに来て我一人先に水を汲みあげて、最早したたか浴びてゐたところであった。

翁は、これを見て大いに喜ばれ、「オオ、えらいえらい今後何事をするに当たっても男児はかうでこそなくてはならぬ。お前伯父さんのいふことを善く聞いて、今から一心に神様の道を修めてゐると、今に必ず時節を得て花の自然に咲き誇る時のあるやうに、神様のお加護に依って、自然と日本の国家をも益するほどの事をなす事が出来て世の人の尊敬を受けるやうになるかがやかしい時節に逢うことがあらうから、かねて伯父さんの云って聞かせるやうに心を清く明るく正しくもって、何事をするにも人は誠を基として世の中に立って常に厚く神を信じて、大切に己の性命も同様に信仰の持続を保って行かうならば、今に必ずいつか一度は他の知らぬ春の野に出て大自然の天啓黙示に接してこの世から後の世にかけての人間の總ての秘事をも自然と無師自得することが出来て汝直ちに神様となって、世間多くの男女を救うこともあながち困難ではないやうになることが出来るであらうから、よく心をこめて勉強しなければいかんよ。」と云はれて少年を励まし、我れ先づさきに家にはいって着物を着て身の調度を調へ、神前に罷り出て御鈴引き鳴らして晴朗な声を静かに放って先づ厳かに大祓を読み始めると次席に坐を占めた潤太氏もそれに和して一句一句明らかに読み始めると、第三席に小さく坐を占めた恒坊少年もこの朝から誰に遅るるところもなく、金の鈴でも振り鳴らすやうな聞き栄えのする力づよい声を高く放ってその二つの星の眼は見るも明らかに御鏡の方に向かってヂット動かず、三人一緒に声を揃へて読み続けて行くといとも静かな寒中の朝は、あたりの風光ますます静かに打ち鎮まって、いとも神々しい、世にも神聖なる朝景色を呈して来ると、ヒョイとこれに気の附いた千秋翁は「神威人を圧す」と心に一声高く叫んで神の前に額づき衷心から稜威に潤はうて感謝の涙に咽びながら御恩を謝すること切であった。

翁は再び敬虔しく大御名を称へ奉り始めながらチョット後ろを顧みると、今年八歳の児童の恒坊が我が声に和して大御名を称え奉りながら振魂をしてゐる所を見ると我が霊先づ凝って、我れ直ちに一個の神に化してゐるやうでこれが単純な一個の少年とはどうしても見受けられぬまでにその信仰が進んでゐるのを見て、思はず驚異の眉をひそめ、「アゝ奇なる哉、縁なる哉、この児大いに教ふべし」と自分に云って、心中窃に期するところあったさうである。

豊前宇佐神宮の後方に当たって、馬城山と云ふ寔に秀麗な霊山が在る。遠くからこの山を望む時は、宛も一羽の鶴が両翼を左右に開いて舞ふやうな形をしてゐる所からか、旧い本などには舞鶴山(まひつるさん)と云ふ名もあるやうである。現在土地では馬城山とも呼ばずまた舞鶴山とも呼ばず、里人は単にこの山の名を「御許山(おもとさん)」と呼んでゐる。

「山に美玉あれば草木為に潤ふ」と云ふ古い語があるが、この山の草木は一種潤ひの色を帯びてゐて、その草木を一見した丈でも「いかさまこれは霊山だな」と云ふ感じを起さずにはゐられない。昔から未だ斧鉞を加へたことのないと云ふこの山の神代杉の深い茂みを見たならば何人も粛然として敬意を表せずにはゐられんであらう。頂上には神社在り、八幡宮に関するいろいろな古跡などが現在にても多く存してゐる。昔から世にも稀なる霊山として、世間多くの修道者などが立籠もりいろいろな行をしたと云ふことであるが、この山の東南方の岩窟には一個の童仙が住んでゐて、熱心な修道者には佛の道をも伝へ又神の秘事なども授けると云ふことに云はれて居る。我が川面先生が年少の頃からたびたび年の寒暑を通じてこの山の洞窟に世人を避けて、その童仙から神の道を授けられたと云ふことは、広く世の人の知ってゐられる通りである。

大正七八年頃のことに予は先生の詩稿に就いて左に記すやうな七絶一首を拝見したことがあった。曰く、

舞鶴山頭日上初。  五雲縹緲巻且舒。

勿看白髪童顔士。  授我人間未読書。

予拝し了って先生に、「先生これは実に妖怪的なお作ですね」と詰るやうにお伺いして見たら、先生は床の間の本箱の上に大切に祭られてあった一冊の書を指して敬意を表され、「ナニ妖怪的の作でもなければ何でも無く、此の一篇は明治十四年の夏予が郷里馬城山中に於いて修行中、或る朝の日出時予が前に霊発した所の不思議なる出来事を、そのまま紀念の為に一篇の七絶にしたまでだ」と云って微笑を洩らされたことがあった。

その後間もなく漢詩人柳塘町田詞宗予(注1)を秘宮に訪ひ来たりし際、彼に此の一篇を記して示せしに、彼数回沈読したる後容を正して筆を執り「奇事奇詩」なりと評して去ったことがあったが、あはれその人も今は既に亡し。

アゝ 悲しいかな。

世の人川面先生の御許には門外不出となってゐる神道の珍書あり、古典講義録も天照大神宮も皆この書より出て来たるものなりと云ふ説あるのは、恐らくこの書のことを指したものであらう。古い紫紺色の表紙の附いた縦六寸位にして幅四寸程ある写本の本書を一瞥することの出来たのは予が外には奥澤富岳氏(注2)と故須永将軍(注3)あるを知るのみである。外にも尚ほ本書を拝見した人があるとしたならば、本書の表紙の裏には先生自身の血を以て

日の本の 神の伝への 文なれば

長くのこして しるべにはせむ

と云ふ一首のかかれてあったのを明らかに見られたことであらう。

予は本書について是非記して置きたいと思ふことがあるが、今日にては幾分思ふ所があるので、ここに記すことは思ひとどまることにした。

 

 

(注1) 柳塘町田詞宗予:明治時代の小説家 町田柳塘(まちだりゅうとう)のこと。

(注2) 奥澤富岳氏:稜威会発足時の理事の一人、奥澤福太郎氏

(注3) 須永将軍:稜威会初代会長、元陸軍中佐須永武義氏