恩師伝記参考資料

恩師伝記参考資料

天山 小田吉蔵(*1)

 

(1)(大正十四年かと思ふ)九月三日のおはがき(大隅安楽温泉掬粋館より)に

ほのぼのとあけゆくなつの海原の

ふねのへに立ち我吾を見る

天地を匂ひ足らはす山ゆりの

花とかたりてわが文をかく

右は横浜港より九州に御出発の節見送申上げし時の御礼状

昭和二年四月二十六日箱根山本別邸よりのおはがき

花や霞む鳥や囀る春の野を

くものみねよとひとり眺かめつ

はこねよいとこ霞の中に

花がさくさくとりがなく

世間滔々善保身。誤国経綸苦此民。細雨濛々春寂寂。廟堂今日遂無人。昭和二年九月二日山口県俵山温泉より娘宛ておはがきに

澄み渡る我身の瞳うつし見て

清き心の持主と知る

我胸にもゆる思ひの影ならむ

天の川原をなかれ行くほし

右の外御短冊数枚ありしが何れも雑誌等にあるもののみ故略す

(2)先生は、一面温情春の如く実に慈母の如し、昭和三年二度上夏禊の際私は病娘を同伴中日より参加しました。(之は兼て先生の御許を得てありましたから)其時は先生始め皆様に一方ならぬ御厄介になりました。禊終了後私共は十一月中旬まで土屋方別宅に滞在静養して居ましたが、先生は十月越後の菊の禊かに御出張なされ、更に秋田に御出張なさるゝる筈の處、私娘御慰問の為態々二度上まで御引返被遊、親しく御慰め被下れし御恩情には実に感謝の言無之次第でありました其時土屋氏はお茶を差上げんと申せしに、いやお茶より水をと被仰例の清水をお上げせしに、嗚呼実に良い水であると被仰まして、其時私には林檎を下されました、約三十分許り御休息後に直に秋田に向け御出発なされたが、先生の其時は二度上禊所に最後の御出張で翌年二月二十三日には先生は御昇天被遊とは実に感慨無量にして、当時を思ひ出す毎に涕涙滂沱たらざるを得ませむ。二十四日であったか二十五日であったか、土屋氏は急電に接し出京せられ、日々昨夜先生は拙宅に参られたと申されたが、さもあらむと思ひます。

(3)先生は実に神か仏か鬼か小児か、真に端倪すべからざる御方にして御立腹の時は実に実に猛烈にして、然も其悪口骨髄に徹するが如き状態なりき、よく東翁と喧嘩せられたが、その御立腹のお顔御両人殆んど同様であった、東翁は全く先生に似て居るよく斯くも似た者だと思ふ、怒れば鬼の如く笑へば小児の如く、又慈父慈母の如し、私も数度御機嫌を損じおしかりを蒙りし事あります、ある時郵便貯金帳の預證二枚ばかり私は破棄せしに、先生は其は必要の物である、なぜ棄てたと云はれ私はあれはもはや必要なき者であります、既に用済みの者で何等必要あるものではありませむと申せしも、先生は一度云ひ出せし事は絶対後にひかぬ御気性故、飽まで私をおしかりなされたが私も又飽まで強情に申し、遂にお謝びしませんでしたが、今になりてはあの時低頭平身お謝せばよき者をと今に至り後悔して居ます。恩師に対し言を返したとは実にけしからぬ事と今更汗顔の至に堪へませむ。

(4)昭和二年一月頃か、ある雪の日私は伺ひましたら先生は少し書くものがあるから手伝ってはくれぬかとの仰せ故、一週間許御手伝いして書上げたのは御神殿上下に貼出しましたあの大天照太神宮であります。あれを見て驚かぬ人はなかりしことは同人の皆知る処です、其際先生に仰せらるゝには世間の学者は法律では法律ばかり経済と云へば経済ばかり、財政と云へば財政ばかり、宗教と云へば宗教ばかりに通じて居る、甚だ狭い其れでは行かぬ、人間は何事にも広く通達しておる事を望むと仰せられましたが、誠に然る事と思ひます。右は時々仰せられました時全く人間は広く何事によらず知る事はよいと思ひます。

(5)昭和二年の夏のある日馬弓先生御夫婦参拝せられた其時先生は禊所に居られた故、御両人も禊所に参られたが間もなく馬弓婦人私を呼ばれて曰く、小田さんはやく来て先生を御覧なさいと申さるゝ故、早速参りしに先生は例の寒餅の水漬に虫が湧いたから洗って水を取替る所でした、然も先生は赤裸々にして恰も七八歳くらいの小児のおいたをしておる様でありました。私は早速先生と交り洗濯の上、元の通りに水に漬けました。此の寒餅(お供へ)は稜威会の名物にして非常に消化よく一種の風味ある者でありました。ある日山本栄次郎氏御夫人御出の時先生は小田君例の餅を奥さんにあげておくれとの事に早速調理の上あげましたら、流石の奥様も漸く三分一許りを食されしのみ、斯く餅を貯へ置くのは先生に深き御考ありての事でありました其を某氏など腐らぬ内僕の様な者に下さったらと屢々言ひましたが親の心子知らずか。

(6)非常に高価と云ふ鮎の子の瓶詰をあまり永く貯へ置かれし故にや、少しく風味を損せしとて先生には御手づからかめに入れ替へ塩を沢山ほとんど真白く交ぜられ皆で食べてもよいと申されました。之は非常に風味のよき珍品なりしも沢山の塩を交ぜられてよりは迚も一口も食べられなかった。私の居る内には流石の東翁さへ一口も食べなかったが、終には「是此霊魂」でも唱へて処分したのか知ら。

以上拙文をも顧みず郵送申上候間可然奉願候也 拍手

 

(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和八年九月号より)

 

 

 

 

なお、本号の前月号、昭和八年八月号には以下の文章があり、それを受けて書かれたものだと思われます。

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故川面凡児先生正伝編纂主意書

拝啓白日赫々万物生々の初夏、各位益々御発展、大慶至極に奉存候。陳は各位日頃御熱望の故川面先生の御正伝、此度愈々左記要領に依り本会の事業として編纂することに相成候條、御賛助被下度候。

先生は、神国大日本の産みし空前の大真人、又、東西古今を通して絶世の大明哲にて御座候、仙より出でゝ俗となり、聖を出でゝ凡となり、俗より出でゝ人となり、その神格は、孔子、釈迦、基督を合せて尚ほ遥かに超越し、その霊眼は克く顕幽の両界を洞見し、その識見は克く人生の表裏を達観し、以て大は宇宙万象の根源を究め尽され、小は万有微妙の生命に徹底致し居られ候事、已に各位の御承知の通りに御座候。加之、先生の人と為り、或は温潤春和の如く、或は熱情烈日の如く、或は峻厳秋霜の如く、或は高潔白雪の如く、時あっては泰然自若なること富岳の崇高に比すべく、時あっては謙譲自卑すること野人の鞠躬如に似たり、その平常、時に嬰児の如く、時に壮者の如く、時に老翁の如く、又時に竜虎の威を振ひ、時に慈母の愛を垂る。神か、仙か、鬼か、人か、聖か、愚か、真に端倪すべからざるもの有之候。加ふるに、先生は自ら自己の事を語るを好ませられざりし為め、その御一生の全貌は、単に皮層の大体に就ても容易に悉知し難きものあり。故に先生の伝記は、ただ二三子の検分と努力にては至難のことに候のみならず、却てその偉徳を汚損するの虞あり。以是先生に親炙し、その謦咳に接せし各位の御存命中にご努力を得て、御伝記を完成致し置かざれば、この大偉人の永久の世に顕はれざるべくと存候。仍て御多用中とは存條も、先師に対する報恩と思召し、御寸暇のまにまに御執筆被下、その都度御送稿給り度く、奉悃願。條拍手敬拝。

 

一 記載事項

  • 各位の見聞せられし先生の言行中、特に感激せられし事項。
  • 各位に宛てられし書簡中後世の参考となるもの。
  • 御幼少以来の生ひ立ち、振る舞、経歴、其他重なる出来事。
  • 御日常の珍聞、異行、奇談など。
  • 先生と他の偉人碩徳との関係や行蹟。
  • 御家庭に於ける御生活、殊に御母堂に奉仕振り
  • 世間の新聞雑誌などに寄稿せられし論文、記事など。
  • 前半生中に著作せられし著書。
  • 先生の歌、句、詩、格言、其他芸術的作品。
  • 先生の各種写真。
  • 先生御揮毫の書の文句。
  • 先生に対するご感想。
  • 事物に触れ、時処に応じて、先生の為されし談話、訓戒。
  • 先生の秘密、失敗、その他逸話。
  • 御臨終の御模様と御示など。

二 期間、右寄稿は、昭和八年八月より同十年七月まで。

三 原稿は本会本部宛御発送の事。

四 原稿は一切返戻せず。

五 原稿の種類に依っては薄謝を呈す。

川面凡児先生正伝編纂委員

委員長  馬場 愿治

副委員長 富岡 宣永

顧問   堀内 新泉

同    川面 義雄

委員   山口 弾正

同    松崎 豊一郎

同    武見 喜三

同    馬弓 良隆

同    出石 誠彦

庶務係  中村 三郎

同    東  秀生

 

(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和八年八月号より)

 

 

(*1) 小田吉蔵氏は、稜威会の現会長、大井道彦先生の実祖父にあたります。