禊の誕生(2)

禊の誕生(承前)

川面先生と奈雪鐵信翁

鬼谷僊史

 時は何でも日露戦争後幾年か経った頃のやうに聞いて居りますが、何でも翁が日本橋の中洲へんに一戸を持って、病気治療と予言を行って居られた時に、本会理事の愛敬利世氏が頑強な疝気にかかって苦痛を覚え、現職秀英社(*1)の幹事長の任務に堪へかねる所から、諸方の医者にかかって治療を受けて居ると、或る一人の友人から「伝へ聞く所によると、近頃日本橋の中洲に一人の仙人が居て、いろいろな病気を治療するが、医者以上の効果があるさうだ。君一つその仙人に一度揉まして見てはどうだ」と言って番地までちゃんと書いてくれたので、愛敬氏は翌日早速出かけて行って、一度仙人の治療を受けて見ると、大変具合がよくなったので、これから大いにその人を信ずるやうになり、三日に一度づつは仙人を神田淡路町二丁目の自宅に来てもらって治療を受けることにして居った。

当時一面に於いて、愛敬氏は日本新聞社の高橋一郎氏並びに堀内新泉氏の紹介によって、川面先生の門に、稜威会の一人として活動して居られた所から、自宅にはチャンと大神様をお祀り申して、朝夕熱心に拝神して居られた。

或る日中洲の仙人の奈雪鐵信氏は、愛敬氏を治療する為にその家を訪ね、入口の一間二枚の格子戸を明けて玄関の庭に入ると、奥の座敷で愛敬氏は、今湯から上がって教典を読んだ後、長い間振魂をしてヱイと一声雷のやうな声を放って発声したので様子を知らぬ仙人は、これには非常に驚いたが、知らぬ振りをして、女中に来由を告げ、主人の居間に通って今日も早速腰のあたりを揉む事になった。治療中に仙人主人に向かひ「つかぬことを伺ひますが、唯今私がお玄関に入りました時、大変高いあなたのお声が聞こえましたが、どうしてあんなお声をお立てなさったのですか」と訊ねて見ると、愛敬氏は例のハッキリした、如何にも男らしい力強い声で、一通りその次第を話して聞かせ、併せて川面先生の御閲歴や、学問識見、人格等に至るまであらまし話して聞かせると、仙人は急に川面先生をこひしがり「旦那私もどうかしてそのお方に就いて、日本の神様のお道を一通り伺って見たいと思ひますが、あなた一骨折って私を先生に紹介して弟子にさせていただくことは出来ますまいか」とたって頼んで已まなかった。

愛敬氏は快く承諾し「ハイよろしい、それでは今日これから早速一緒に先生の所に伺って見ることにしやう」と云って奈雪氏を伴れて家を出かけ、早速行って来たのは初音町四丁目十六番地時代の稜威会本部であった。

愛敬氏は先づ先生にお目にかかって、名雪氏の希望をお伝へ申し、これまでは仏教ばかり熱心に研究して居たものらしう御座いますが、先生何とかして彼をお弟子のひとりに加えて神様の道を聞かせ下さることは出来ますまいかとお願ひして見ると、先生は快く笑顔を以て愛敬氏の言をお聞きになり、名雪氏の容貌をヂット御覧になったが、ニッコリとお笑ひなさって「アゝ結構です、これから講演日にはあなたと一緒にここに来なさって、自由に講義も聞かうし、又自由に質問をしなさって神道の研究をなさるがいい。既にそんなに仏教を行って居なさるやうなら、神様の道を研究するには都合の良いことも多いでせう」と親しく仰せられて、奈雪氏を会員の一人にお加へになったのでした。

かうした事からして、川面先生に師事せらるるやうになった奈雪氏は、講演の日は申すに及ばず、それ以外の日に於いても、身に暇さへあれば、先生の許に足繁くお伺ひしていろいろと深く神道のお話をお伺ひして修行して居られたのでしたが、先生が常に「お前真剣になって日本の神道を研究して物にならうと思ふならば、それは是非とも先づ禊から入って行かなければならぬ」と仰せられるので、信仰の熱心な奈雪氏は、一日も速やかに先生に従って禊を実修して見たいものだと思って、心窃にその機の熟するのを待ち焦がれて居りました。

翁は前に記したやうな経路を巡って来られただけの人で、もとより僧侶などではなかったが、夙に真言の密儀に精通した上に、川面先生のお弟子となり、先生に師事して祓禊の神事を修めてから一層深く霊境に進み、所謂水を変じて火となし、又火を変じて水となす、底の日本神道の極意に徹底して、その生前には実に驚くべき奇蹟に富んだ道人であったが、惜しい事には、晩年半身不随意症にかかって、未だ十分に志を果たすことを得ぬ中に、轗軻不遇の中に世を終るに至ったことは、実に遺憾千万な次第であった。

「機会は準備ある人の上に来たる」と申しますが、これは全く事実でして、その中明治四十二年一月に至って、奈雪氏の上には、予て希望して居った禊を先生に就いて実修する機会を自然と神様がお与へになったのでした。これと云ふのも一つは全く氏が若い時から道を修める準備をして居られたからのことでした。

奈雪氏は裏の行事にかけては、実に極意に達して居りましたが、学問は殆ど全くないでした、氏の若い頃お大師様は氏の為にこれを大にお惜しみになりまして「お前全く文字がないので可愛想だ、第一人間が自分の名を書いたり、手紙をかいたりすることの出来ぬやうでは処世上甚だ困るだらうから、これから少しづつ読み書きの道を学ぶ事にしたらよからうと、仰せられて時をり氏の家にお顕はれになって読み書きを教へて下さることになりました。

物学びすることに熱心な奈雪氏は、有りがたいことに思ふて熱心に読書を稽古して居る中に、人の一念と云ふは恐いもので遂に自分の名を書いたり、手紙なぞをもどうにか書くやうになりましたので、人は皆驚いて居たさうであります。

さてお話は川面先生の上に転じまして、先生は御青年時代に於いて、御郷里豊前宇佐の馬城山に於いて御修行中からして、日本固有の神伝にして、世界万国に卓絶してゐる所の禊祓の神事を、神代の昔に遡って復興し、世上の男女をして神人同化の霊境に入らしめやうとの御念願で居られましたが、茲に漸くその時到り機熟し、地を相模灘の辺り片瀬の海岸に相せられ、この時則ち明治四十二年一月十八日大寒入りの日を以て、その第一期の禊を実行せらるることになりました。(以下次号)

 

<同ページのコラム>
案山子の問答

川面先生かつて記者に語り給はく、日本神道には案山子との問答の伝あり、案山子と能く問答し得るに至らざれば、未だ共に神道を談ずるに足らずと、先生の門下生三千人能く案山子と問答し得るもの果して幾人あるかを知らず。

 

(*1)秀英社 原文のままですが、調べると正しくは秀英舎のようで、この会社は現在の大日本印刷(株)の前身のようです。

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和七年六月号より)