軒のたち花(3)

軒のたち花(3)

 

飯峰生

三、先生二時間にて神戸から出雲の大社に参拝せられた話

これは何でも大正八九年ごろの春か又は夏の事であったとばかり覚えてをりますが、先生が神戸支部の招待によって淡路の国岩屋の禊に指導に行かれてのお帰るさに、神戸から出雲の大社まで二百余哩と云ふ長距離を、往復僅に二時間で参拝して来られたと云ふ奇談があります。先生その時神戸に居る親友の一人(多分宮崎晴瀾(*1)でせう)に向かってこの事実を語られますと、相手は大いに怪しんで「ここから大社まで二時間で往復するなどと云ふことは人間の力を以て到底なし得ることではないので、自分には信ずることが出来んが、君果して大社に参拝して来られたならば何かその証拠ともなすべきものがあるか」と詰って訊はれますと、先生うなづかれて「オゝその証拠はここにあり」と云ひも終わらぬ中に腹帯の中から一枚の白紙に包んだ何物かを大切に取り出し、一応恭しく拝せられた後、静かに包みを開ひて中から大社様の御神璽を取り出して宮崎氏に示し、これその確かなる証拠なり」と云はれると、宮崎氏は始めてうなづき、先生の云ふ所を信ぜられ「神戸からたとひ汽車で行ったとしても、これから大社までは僅かに二時間ばかりで往復されそうなことはないが、どうして行って来られたか」と言急に問ひ質しても、先生は満面微笑を含んで何事も語らなかったと云ふ事であります。御帰京の後一日私どもに、然しこんなことは決して妄りに人に語ってはならぬ、こんな事を妄りに人に話すと、その為め却って人をして迷信の巷に迷はせるやうなことになるから、自分の生前にはこんなことを口外しては困るが、こんど吾は全く二時間で神戸から大社様に参拝して来た。人間の念力と云ふは実に恐ろしい力を有って居って大きな仕事をする事の出来るものだ。その時尚先生は話を続けられて「人間は一心不乱に精神を集注してかうしやうと思ったことは何事でもいつか一度はその思ふ所を果たし得るものであるが、自分は長年の間どうかして一度出雲に参拝したいと云ふ切なる念願を抱いてゐたが、今日まで何分にも好い機会を得られなくて空しく夢寝の中に過ぎ去ってをったが、今年になって今回淡路の禊を終わった後に神さまの有難いお導きにあづかって、思ひがけなくも、往復僅か二時間で出雲に参詣して心願を果たすことが出来たのは寔に辱いことであった」と語り終わりて西の方に向かって礼拝せられたことがありました。然しながら「かうした事は吾の生前には断じて妄りに人に語ってはならぬぞ」と堅く戒められて居りましたので誰にも話したことはありませんでしたが、一昨年の春になり先生随一の御高弟で、稜威会のその人ありと知られたる奈雪鉄信翁と一夕相会していろいろ先生のお噂をした後、初めてこの事を同翁に語りて見ましたら翁は膝をたたいて髭だらけの顔を打ち振って呵々と笑ひ、先生行ったかなあ、先生ほどの人になるとモー訳もないことでせう、これは一種の狗術で(記者曰く狗術は仙術以上のものだそうなので、先生はその狗術にも精通し居られて天狗に関する種々なる智識の所有者であった)その道の人から見て何も怪しむに足らぬことです、勿論その人にあらざれば行ふ事が出来ぬ、また人に話したとてこれを本当に思ふ人はありますまいが、然しその道の人に由って行へば神戸出雲間位は愚か、まだまだはるか遠方の処にでも、汽車より疾き速力の時間で、自由に飛行往復することの出来るのは左程の難事ではありますまい、例へば遠州秋葉山の半僧坊や、富士山の太郎坊、九州彦山の豊前坊、鞍馬、愛宕の太郎坊、その他諸国の大天狗達が神変不思議の霊怪談を面白く話して聞かされたことがありました。

筆のついでに記者が記憶に存して居る先生同様、昔あった事蹟の二三の例を挙げて見ませうなら、旧幕時代に上州高崎の藩士に寺田五右衛門と云ふ人があったが、この人は若い時から非常なる金毘羅信者で、ある時、讃岐の象頭山まで往復一日程で参拝して来たと云ふ話が伝はって居ります。この人は今に高崎市外琴平神社境内に神として祭られて在ります。また浄土宗の東の本山として有名なる東京芝の増上寺に、今より何百年か前に大我和尚と云ふ坊さんがあった、この坊さんは或る時お寺に緊急事態が勃発した為に、これを京都の大本山なる知恩院に報告すべく、使命を帯びて東西両京間何百哩をと云ふ路を一日程で往復したと云ふ事は有名な話であります。また記者の郷里なる肥後熊本に今より何百年か前に太田黒伊勢守(*2)と云ふ神主があった、この人は熱烈なる大神宮の信仰家で、一年一回は必ずお伊勢参りをした人であったが、後には毎月一回づつ参詣するやうになったが、それでも猶ほ飽き足らずして終には日参の祈願を込めて、肥後熊本より伊勢に至る二百里以上の道程を日参するやうになったと云ふ事であります、この人は予ねて昇天の志を抱いて居られたと云ふ事であったが辞世の時は荒身魂のままに昇天した人であります。その昇天当時の有様を或る画家が絵に写して、太田黒伊勢守の奉仕して居られた大神宮の御社に紀念の為に奉納したものが輓近に至るまで残って居りました。

(稜威会機関紙「大日本世界教」昭和六年八月号より)

 

【参考】

天狗とは何ぞや   川面先生曰く

人身変じて仙身となり、仙身変じて天狗身となり、天狗身変じて神明となる。仙身より狗身に変ずるは、其の道の順序なれども、人身より直ちに狗術を学び、狗法を修行すれば亦克く天狗たることを得るのである。狗法狗術とは云へ、寧ろ仙道仙術の厳粛なるものである。仙術は肉体の修行を主として、漸々狗身に変ずるものなれども、狗術は精神的訓練を主として、直ちに狗身に化する者とす。仙道の肉体的修行に困難の存するものにして、其の苦痛は実に言語に絶す。仙道は尋常人と雖も、漸々学んで修行することを得べく狗法狗術に至りては、非常の人、猛烈の資質性を有する者に非ずんば断じて企て及ぶべきものでない。

 

(*1) 宮崎晴瀾:明治期の漢詩人

(*2) 熊本市西区の新開大神宮を創建した太田黒孫七郎のこと