川面凡児先生を追懐す

 

川面先生の高弟であった、中村文山先生の文章です。

古今東西
絶世聖哲
川面凡児先生を追懐す
東京  中村 文山

その一、最初のおどろき
おん師は、教の人でなくして、「道」の聖者であられた。予が初めて上野桜木町の稜威会本部をお訪ねした際(*1)、予の想像は定めし堂々たる大教堂に、「全神教趣大日本世界教本部」の大標札が掲げてあるものと思ったのに、実に貧弱なバラック小屋に、その潜屋門の右柱に、小さな荷札の裏に「稜威会」と書いて打ち付けてあったには意外だったので、直ちに「先生、ここは稜威会大教会の本部ではありませんか」と愚問を放ったら、お答えは「ここは教会ではない(*2)。天つ日嗣の天皇陛下の大稜威を世界に輝かす同人のクラブである」と無造作に申された。

その二。川面先生は教師にあらず、「道」の聖者。
おん師は徹上徹下、道の聖哲であって、「教」の師ではなかった。だから「儂は弟分や門人は造らぬ」と仰って、ただ「道の同人」と呼ばれた。
故に本部員も常に数名居ったが誰にも特に教えたり伝えられるような事は無かった。ただ一つのミソギ講習があるのみで、それも本人の希望のまにまに御許しあるだけで別にお勧めもなかった。
さればおん師の幾多の御伝は、殆ど一種の天語(アマガタリ)式で、ちょうど上古の神典、古事記同様で、世人が解ろうが解るまいが、そんなことに頓着はない。
その故、おん師の重大な御伝でも重要な遺訓でも、之を世に示すには経から緯から、表から裏から、本から末から、主観から客観から思慮を尽くし、研究を重ねる必要がある。斯うして初めて時勢に応じ、広く世を導き万物の霊長たる人間界に大光明を与えることになる。
現在は、人間は万物中の大悪魔に外ならぬ。故に之を善導して人生宇宙一貫の神代世界化することこそ。天津日嗣スメラミコト(天皇=万世世界の大御親様)の赤子(オオミタカラ)われら天照民族の伝統的根本の使命であり、責任であり生死一貫(*3) 顕幽一途天壌無為物の本懐である。

その三、おん師のお歌に就いて
おん師の歌や句は、(全集中第十巻)こそは古今東西、絶世の聖哲の御本懐を丸出しされて居られるので、無上にお懐かしう御座います。就中次の数首を拝読する毎に(*4)、わが使命の重大を痛感すると同時に、現在の世界はお国体の危機が眼前に迫るやに感ぜられ、決死の覚悟で生き永らえて居る。即ち
(1) 世の為に 開くわが道 いつの世か
人踏むらんか 待ちつつありな
(2) 未だ知らぬ 神ありそれは主の神と
称えて永久に こがれ奉りぬ
(3) 掛巻くも その大御名を宣らすべく
いてや謹み 畏みて聞け
(4) 畏みて 聞きて称へて祈りませ
主の神の名は 天御中主太神
(5) 標縄延べて 共に守らむ高光る
天つ日嗣の天皇(スメラミコト)を
(6) 敷島の 日本の国に 人やあると
問はば答へむ 我ありとこそ
(7) これやこの われわれにして われと知る
われこそ未だ われを知らざれ

右の七首の内でも、最後の一首は、全国民に大反省と大警告であり、大奮起を要望せられたものと信ぜられる。茲に第四十年祭に当たり、慎んで我等の努力至らず不甲斐なさを痛感し、重々お詫び申し上げます。

(昭和45年2月1日発行。「川面凡児先生四十年祭記念会報」より)


*1 大正5年ごろか?
*2 原文「此処はは」を改める
*3 原文「生死一賀」を改める
*4 原文「拝読る毎にに」を改める

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