川面凡児先生小伝

川面先生の伝記です。

川面凡児先生小伝
小  島  倭  夫

川面先生、通称は凡児、字を恒次、諱名(いみな)を吉光と云い、別に殿山の号があった。文久二年四月一日、大分県宇佐郡西川村小坂において父川面仁左衛門、母ヤツの次男として生まれた。祖先は源家の武門の出であったが、民間に下って郷士となり、川面姓を名のり、酒造業を営む。父仁六翁は資性温厚、篤実で村人から生仏と尊称され、母のヤツ女は仏寺の出身で幼時から神、仏に信仰厚く、施しをもって、無上の楽しみとした。先生が後年信仰家として大成されたのは、かような慈悲深い、信仰をもった父母の感化によったものである。
先生は幼時から腕白で一時寺に預けられたことがあるが、寺僧も、もてあまして、母もその処置に窮せられたので父仁六翁の義弟にあたる溝口篤郎(千秋と号す)氏に身柄を預けて教育を一任された。叔母のトキ女は賢婦人であり、千秋氏は古神道の造詣深い神職であり、また憂国の志に富み、当時の志士とも交友があった。宇佐は古代から有名な宇佐神宮の所在地であったから、全国各地から神道家、勤王の志士の集った所であり、土地の人も敬神尊皇の念に厚く、先生は幼時この地で峻厳な千秋翁の下で教育されたのであった。また諸国から集る神道家は必ず千秋翁の家に立寄って滞在するのが例であったので後年先生が神道に志されたのも、川面家が神道に由緒ある家であったのと同時にここにも一つの因縁があったのではないかと思う。当時有名な豊前の儒者、恒遠翁について漢籍を学ばれたのもこの時代である。先生は十三才のとき意を決して宇佐の南方約一里の地にある馬城山に入った。山容洵に麗しい古い霊山であり、昔から山には二百八十歳と云われる童仙蓮池貞澄がおり、それについて十五オまで仙道を学ばれた。この間あらゆる辛酸をなめ、草根木皮を食して、狗術を修めた。後年種々な奇跡を現わされたことがあったのはこの時の修業によるものである。
十五才より鴛海涵養塾に学ばれ、約三ヶ年の間皇漢の学を修め、文章を作る稽古をされた。時宛も政論盛んに勃興し、政党の組織は各地に作られ、自由民権論もこの草深い田舎にも進入し来り、先生は板垣伯を崇拝して、盛んに自由民権論を主張した。後年自由党報を主宰するにいたったのも故なきに非らずである。
明治十五年齢二十一歳のとき熊本城南、隈庄町に、稚竜同盟谷と名付ける塾を開いて土地の子弟を教育した。同十八年二月には長崎に遊学、同市銀屋町の行余学舎に学び、後舎長となって修身、歴史を教授した。
明治十八年二十四歳、単身上京し、苦学力行して政治、法律学を修め、大いに政界に馳駆活動せんとして雑誌「日本政党」を発行した。その堂々たる所論は一時天下の耳目をそばだたしめたが、政治家たるよりは宗教家としての天分に恵まれたるを自覚して、仏学を専攻せんと志し、新聞雑誌に寄稿して僅かに糊口を凌いだ。その時代の交友には、伝通院の住職松涛泰成上人、浄土宗の大徳福田行誠氏、曹洞禅の大家森田悟由氏等があった。盛んに経論を討究し、禅機を練り、道力を養うことに精進した。当時新帰朝の青年哲学者井上哲次郎とも交わり、西洋哲学について質問研究した。東宮侍講天台道士杉浦重剛翁とは特に親交があった。
此時代における先生の窮乏は最も甚だしく、往々絶食することもあった。増上寺の名僧伊達霊験師に見出されて、その雑読「仏教」の主筆となり、また京都で著名であった、雑読「禅宗」に寄稿して衣食の資を得た。この頃から先生の「蓮華宝印」のペンネームは仏教界に有名になった。また一面にはこの頃、仏門の碩学黒田真洞師について仏教学を専攻した。淑徳女学校の創立に関与され、国語、漢文を教授し、傍ら浄土宗学支校にも教鞭をとられた。
明治二十九年三十五歳教育の余暇を利用して、自由党報に執筆する。当時板垣伯の幕僚で詩人、評論家として名声嘖々たる宮崎晴瀾氏に推挙され「鬼芙蓉」の名をもって文名大いにあがる。これより有力政治家を知り、明治三十二年八月、招かれて長野新聞の主筆となった。そして敵党の筆将山路愛山をして瞠若たらしめた。越えて三十三年九月長野新聞を辞して東京に帰り、下谷区谷中三崎町十一番地に母堂を奉じて一戸を構えることとなった。この頃日夕接する人は主として政客であり、実業家であった。人を救う道は政治よりむしろ宗教にあると考え想を練りつつあったとき、自由党の名士河野広中、松田正久を始め紀州熊野出身代議士山口熊野氏とも別懇であったので、懇請されて、同地の自由党機関誌である熊野実業新聞の主筆として聘せられた。あらゆる妨害、圧迫、脅威を排して遂に県民挙って自由党下に帰服せしめた。これを辞して再び帰東するや、愈々平素より想を練っていた大日本世界教の発表準備に着手した。
この間の貧苦はまた筆舌に尽し難いものがあったがよく堪えられ、目的の為には就職をも断念された。一方には理解深い慈母の情あり一意専心研究に向って邁進し、遂に確信に到達して、明治三十九年四月一日先生四十五回の誕辰の吉日をトして、母君の許可を得、新村寅次郎氏の助けも得て、下谷区三崎町の陋屋に「全神教趣大日本世界教」の大旗を掲げた。我が神ながらの祖神の大道により、凡ゆる宗教、一切の学説、すべての信仰の根元を明かにし、その基準を示し、枝葉根幹を正し、個人、家庭、国家、世界、宇宙の統一原理を明確ならしめ、人類の天照救済の道を鮮明にし、神人万有に無窮の大安心を得せしむために起たれたのであった。そして会名を「稜威会」と称し「全神教趣大日本世界教宣明書」を発行した。翌四十年四月会を下谷区初音町に移転した。当時先生は殆ど門外不出で超然として、来る者を拒まず、去るものを追わず、只一人のためにも数万言を惜しまず、飽くところを知らなかった。そして、この声は世界に響き、全宇宙に徹し、顕幽を貫き神人万有に共鳴するものと信じたのである。
翌明治四十一年一月一日、四十七歳の元旦を期して機関誌「大日本世界教みいづ」を創刊した。これは先生の終焉まで号を重ねること四百回。明治四十二年の正月愛敬利世氏の斡旋により、相州片瀬鈴木屋において、奈雪鉄信氏を伴うて会として初めての修禊を開始された。これが禊によって他人を指導した初回とする。
大正三年奥沢福太郎氏の奔走により鵜沢總明氏等の協力の下に高木兼寛男爵を会長とする古典攷究会が設立された。我が古典を通して惟神の大道を明らかにして普く天下に公開するのが目的であった。当時天下の名士悉く風を望んで来聴したが、神秘幽玄、高遠雄大な見識に驚倒しないものはなかった。翌年これを筆記して「古典講義録」として会員に頒布したところ先生の名声漸く天下に嘖々たるものがあった。先生時に齢五十五歳であった。初音町の家も狭隘となったので、上野桜木町四十五番地にー宅を新築して移った。大正六年夏八月愛敬氏の請を容れて、軽井沢の奥二度上の相生滝において初めての夏の禊を催された。また大正十年五月上総一の宮海岸において初めて桃の禊が行われた。大正九年六月二十日出願していた社団法人の許可が、十年二月十八日下りた。十一年本部を大久保百人町に移す。大正十五年六月には先生多年の請願であり壮年より起草されていた「天照太神宮」を山本同族会社、山本兄弟の義捐を得て出版する。次いで昭和三年九月その続編を出版されたが、これは先生畢生の大著である。昭和四年一月二十日より例年の如く、片瀬における大寒禊を指導されて帰ると間もなく風邪気味であったが、努めて、執筆もし、人にも接せられた。二月五日発熱甚だしく容態悪化し遂に肺炎となり、医師看護の手厚きにもかかわらず昭和四年二月二十三日午後一時四十分、親戚、、知己、門人等の限りない愛惜の中に、梅花の咲くを待たず、安らかに神去りました。
齢六十八歳、その辞世の歌。

哀れとや みそなはしけん 暇なき 我身にいとま 神ぞ賜はる

(三十年祭紀念号より転載)

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