文山見聞記(7)
文山見聞記(7)
中村三郎
六月十七日、此の日師は久し振りにて千駄木の岩屋戸に息(いこ)はる。
杜宇(ホトトギス)なくや羽ぶきに風起り
庭橘の花綻びむとす
同廿日、師、食後閑談の序に、懇篤なる訓話あり。曰く、
誰人でも、この人生に処するに、謙譲と温情が第一じゃ。古来如何なる人でも、傲慢で冷酷な者が、大事を成就した例がないとは、俺は幼時常に父より誡められた処である。吾が家は代々酒造の業、従って家人僕婢、傭人など大勢であったなれど、父は常に是等と食事を同一にせられ、又その応接も誰れ彼れの分け隔てが無かったと。
師は、人に接するに上下の差別なく又余りに謙遜に失する程であったのも、之れ全く父君平常の感化である。我等は、師が余りに謙遜に過ぎ、遠慮に過ぎ、丁寧に過ぎる為に、子弟の情としては、先生は、今少し権式張って貰いたく思ふことさへ屢々あったほどである。之に反し、師が人に御馳走でもなさる時などは、余りに無理に強ひられる為、我々共の俗眼では先生の親切は余り押附けがましく思はれたものである。
又師は朝夕子弟や客と食事を倶にせられ、粗食を等しうせられた。而して平生は殆んど一食一菜であった。師已に老境に近い、支那の教にも六十にして肉を喰ひ、七十にして帛を着るとあれば、老境の師が、我々青壮年者と同一食事では、師の精気を保てまいと思うて、毎食師の分には一二品の滋味を添へたが、師は又之を一同のものに分かち与へらるるので困った。さればとて、同等のご馳走を皆にすることは、本部の経済が許さない。稜威会の貧乏所帯の会計係は、実際、国家の大蔵大臣よりも苦痛であることは、一度この衝に当たったものでなければ想像もつかぬ。
夕景、師は松岡青生氏の元気な話に釣り込まれ乍ら入浴に出て行かれた。が、少時して中途から御一人で戻られ、『拝むのを忘れて出た』と仰せられ、其儘神様に丁重に御挨拶されて再た出て行かれた。
入浴のことで思ひ出したが、旧臘師は、病後御静養の為め、高木男爵や秋間女史に勧められて伊豆の伊東に湯治に行かれたことがある。旅館は東屋で、木賃宿の成り上りのやうな不潔な旅籠屋であった。此処に約一週間程のご滞在であったが、湯治とは名目丈けで、実は殆んど昼夜兼行で憲法根本義(現今出版せられた憲法宮)を執筆せられた。
予一人、夜湯に、蛙の如く浮び、亀の如く沈んで浩然の気を養うて居ると、そこへ主人も女中も倶に浴びに来た。その時主人が予に異しみ問ふ。あの御隠居様は一たい御幾ツであらっしゃりますか。予曰く、君当てて御覧。主人曰く、そーですネ、御態を見れば七十御幾ツと思ひますが、御湯の時の御裸体を拝見すると二十歳前後の青年ですなと。此の時、主客男女温かき浴槽裏に摚ツと笑ふ。予は室に帰りて師に此の由を聞す。師之を聴かれて驚き且つ嘆息しての仰せに、俺は七十余りに見へるかの、予傍より、先生悲しみ玉ふな、その鳥打帽を阿弥陀に冠られて、杖を衝かれて市中を歩かるる時は、九十位の屑屋の隠居としか見へませぬと申し上ぐれば、再び驚かむとせらるる師を制して堀内仁麿氏曰ふ。叔父様!そんなことで驚きなさるな、其れよりも未だ面白いのは、叔父様が御腹が空いた時のお食事の態ですよ。丁度三ツか四ツの子供と少しも違ひませぬよと。三人相顧みて哄笑し、暫く止まず。
此日夕食後、師は二十年前駿河台にありし当時の詩をフイと思ひ出でられて口吟せらる。
我性雖愚志道高。 潜期他日直霊豪。
誰知一滴一條水。 捲起滔天四海濤。
この詩はナ、俺が死んでから出ないと世に出してはいけない。
更に旧作を扇に書かれて贈ふ。五言律なり。
木鐸警当世。 善心歴々存。
神勲天地裏。 唯許一人尊。
予此の日誌を見、当時を追懐するに感慨転た新たなり。将来師の日常を知らむと欲するもの為に、摘抄して本誌に載す。
(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和五年六月号より)