文山見聞記(6)
文山見聞記(6)
中村三郎
文山曰く、本稿は、師が上野に於いて例会席上の御講演の要領丈けであります。今、当時の日記を読み、之を今日の世態に鑑み、慷慨更に新たなるものあり。茲にこれを公表して同人各位の直霊に愬(うった)ふ。
人間出生の本懐
此の頃、ある書物を読みましたが、洵に戦慄すべき過激無謀の記事がある。彼等は云ふ。吾人は快楽せむが為に生く。自然は人間に、平等の自由幸福を賦与して居るのだ。だから同じ人間でありながら貧富貴賤の差別があるのは社会制度の罪悪である。神社寺院は偶像である。僧侶牧師等は不生産的動物である。事業は資本主の専有でない。国家は吾人を苦しめ、吾人を束縛するの障碍である。是等は總て、吾人の前には必要なし。吾の前には吾より外に権威あるものなし。吾人は此の捕らわれた国家を打破し、吾人の自由なる社会を創造せねばならない。是れ吾人の権利だ。天職だ。と。
私は今、憲法論を執筆中でありますが、以上の如く国家不必要論者の前には憲法も用なし。蓋し国家を大切に思ふが故に、憲法も研究するのである。彼等には先づ、人間出征の本懐を教へねばなりませぬ。何となれば、彼等は利己主義で、衣食住本位で、性欲、肉欲、私欲の外、何物も知らない。全く禽獣と選ぶ所がないからであります。
されど思へ。宇宙万有中、一として活動せざるものは無い。日月星晨より土石器物の無機無情者に至るまで、日夜活動して息まず。然れども、其の活動するは、報酬を求むるの謂いでない。只自己を顕はしつつあるに過ぎない。自性の煥発して自らに活動し、直霊の本能として天真に活動するに過ぎないのです。
例へば、此の見台は、此処に実在として現に占位して居る。結晶し、統一し、持久して抵抗力を持って居る。而して見台としての自性を発揮して、用を為しつつ宇宙天分の一部を尽し、人の使用に貢献して居る。是れ慥かに活動である。而も見台はたにむかってほうしゅうを欲して持久し、貢献するのではない。只自性を顕はすに過ぎませぬ。器物と吾人の異なる所は、只、自ら姿体を顕はし、自ら向上進歩すること能はざるまでにて、其の活動も自性の発顕も、極めて狭き範囲に止まって、寔に憐れむべき境遇であるのです。
草木に至っては、自ら向上発達し、又繁殖も致しますから、飲食慾もあり、性欲もあります。然れども草木は単に飲食慾や性欲にためのみに生活するのではない。多肥を施すも妄りに摂らず、時期過ぐれば花は萎みても活動して息みませぬ。
下等動物の禽獣になると、性、食欲が、植物に比して烈強で更に放侈慾なるものもあって、自由である。之を求めて奔走し、得ざれば焦慮す。然れども、彼等と雖も単に性、食、放侈慾の為のみに狂奔するばかりでない。一定の程度と時期とを過ぎれば弾発して之を受けませぬ。而も門を警め、時を告げ、車を引き、強を傲り、美羽を競ひ、美声に楽しみ、舞踏を自慢します。
人類には衣食住がない。自らこれを製造耕作して自給せねばなりませぬ。併し乍ら、人間は衣食住を造る能力の外、動植器物の如き他に貢献し、他に自慢すべき何ものかが、無いのでせうか。換言せば、人間の活動は衣食住慾と、放侈慾との満足さへ得ればそれで安心が出来ませうか。報酬さへ収得せば、それで平気で居られませうか。若し報酬を得んがために生活するものとせば、之を得ざる時は如何。只手足を収めて空しく死し去るの外なしと云ふことになる。今茲に甲、乙、丙の三人あって、我が為に一日の活動したとして、甲は報酬を多く貪って得々として去り、乙は相当な報酬を受け、而も一日の事業を喜んで買えり、丙は報酬を謝辞し、且つ曰く、予は只君の為に我が能力を尽くしたのみ、報酬を受くるは却って我が本懐で無いとて去った。今この三人の心事、孰れを以て世人は尊しとし、優れりとしますか、若し茲に、其の報酬を思はざるのみならず、他の為め、村の為め、国の為め、世の為めに、我が財産を傾け、一家一族を捧げ、身命を尽くして貢献したものがありとせば如何。之に関係ある者も、無き者も、国の内外、敵味方の別なく、人間として之を聴かば必ずや感激、賞讃せざる者はあるまい。古今皆然り。将来も断じて然らざるを得まい。是れ人間には、誰人にも同様の麗はしい偉大な自性があるから、之に共鳴して我が事のやうに、之れを喜び、之れに感じて愉快に耐へないのである。
去り乍ら、報酬を求むるを敢て悪いと云ふのではない。主なる目的は自性に生くるに在る。報酬は只副産物である。是の本末を誤ると、自己を顕はすこと能はず、自性を主張することを得ず。唯報酬のある所、多きを追ふて狂奔するのみ。極端になると賄賂を喜び、詐欺も恥じず、表裏の言動をも敢てし、又均しく報酬を受くるに於ては、可成く労少く時間の短きを欲して、遂には奇怪にも、多数団結して残忍無道にして冷酷横暴なる労働争議を惹起し、悪平等に陥り、利己主義となり、無政府主義となり、国を売り、同胞を売りて敵の為に働く間諜ともなるのである。嗚呼人間としての価値何処にあるや。
器物すら、自性を発揮して耐久し、各々其の用に当たる。植物も自性を発揮して松の常盤に栄へ、紅葉の錦を示し、杉の直を表はし、牡丹の美、菊の清、梅の香を競ふに非ずや。禽獣亦、各々その芸能力量を発揮して居る。鉱、植、動物と雖、尚且つ、衣、食、淫、侈慾の外、報酬の外、自性としての天真の活動あり、誇あり、自信あり、自尊あり。人間豈に独り、器物、動植、禽獣に及ばずとなすか。
我が民族の真念としては、自性、自負、自尊、自慢の為には、報酬の如きは固より眼中に無いのみならず、時には財産を尽くし、一門一族を尽くし、衣、食、住、淫、侈の諸慾をも絶ち、最も大切なる身命までも捧げて活動せねば、自ら安心が出来ないことがある。啻に現世のみならず、死しては霊界の神となり生まれては顕界の人として幾度も幾度も永久に生死反復して自己の本性、本能を発揮せねば息まない。是れ独り日本民族のことのみではない。東西古今總て、人類の自覚としては爰まで到達せねばならない。何となれば是れが宇宙万有を通して、自然に帰着すべき大道であるからであり、太神の御心であるからです。
世界人類の原人としての、太神の天津霊としての、皇国の祖神としての、諾冊二神の御理想も、御事業も、正しく茲にあるものと拝察す。天壌無窮に、人生を修理固成するには、前述の信仰に依って生死し、生生し、七生百生、千生、万々生して渝らぬ所に安心立命があるのである。祖神も、地球を生み、山河草木を生み、此の邦土に天降りましては、禽獣を生み、大事忍雄としての人類を生み、人生の中心、神の権威としての万世一系の皇統をを生み、更に配偶しては夫婦の大道を示し、弥広殿としての家庭を組織せられては家族の大道を示し、人類としては人生の修理固成的天職、事業、組織の大本を示し、人としての神、神としての人としては、神人一体、幽明道交の大道を示し、更に宝祚の無窮を垂れ、君民の本末を明らかにし、大義名分を確立し、教政一体の大道に依って、人生、社会、国家、一族一門の平和、幸福、安寧、親睦の基を開き置かれた。如斯く、御一生を通しての大活動は、悉く人生を天照し、万霊を慰安し、無窮の子孫、民族、人類、万有の為の貢献であって、ご自分の衣食住は単に其の天職責任を尽くさるる為の故に摂られたるの資量に過ぎない。東西古今、如是の大洪範、大偉業、大勲功を後世子孫に貽されたる者、何処にありませう乎。然るに之れを措き忘れて、ヤレ日蓮の、ヤレ弘法の、ヤレ釈迦の、孔子の、基督の、トルストイの、レーニンのと、騒ぎ廻るとは何たる不見識ぞ、醜態ぞ。(下略)
文山曰く、師は舌端火を噴く底の右講演を終られてから、一時憲法根本義の執筆を中断せられて寒気凛烈の真最中、昼夜兼行して社会組織の根本原理を起稿せられ、アの大著述を殆んど一ヶ月内に脱稿し上梓し且つ校正まで終了せられました。当時過労の為め三度卒倒せられたる程なり。神ワザとは真に是れ。
(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和五年四月号より)