戦後の歩みの一端を

青葉先生の書かれた、「戦後の歩みの一端を」を掲載します。
五十年祭の記念文集からの転載です。

 

戦後の歩みの一端を

青 葉 淑 光

先生が御帰幽遊ばされて早や五十年。つい、昨日今日の様に先生の慈顔を身近に感ずるかと思うと、全く手の届かない遠い遠い過去世の絵巻事であったかの様にも感じられる。それ程、此処五、六十年の世相の変転が大きかったからであろうか。
私の子供心に残っている先生は関東大震災の何年か前当りからである。なぜかわからないが、先生については一駒一駒の印象が非常に鮮やかである。
父の話によると先生は関東大震災を身をもって早くも予知され、期が近づくに従い、居ても立ってもいられない救世の思いで日夜を過ごされたが、遂に押え切れず「みいづ」誌にこの予言を発表されたとのこと。それから実に一ケ月を過ぎず、この天変地異は実現されてしまっている。
また、我国の大難関であった太平洋戦争に関しても先生は御生前既に、この事を見透され、「世界の大国が日本にどんな難題を持ちかけて来ても国民はじっと隠忍自重して、我国の人口が、一億になる迄は決して手出しをしてはならぬ。云々」と、世界の動きを掌を指すが如くに予言され、「みいづ」誌に堂々と発表して居られる。この事については川面先生の愛弟子新村潔知先生も四十年祭会報で、川面先生のいかに素晴らしい大予言であったかを指摘されて居られるが、先生は戦乱を見ずに御帰幽された。
先生亡き後の稜威会には未だ立派な人材が多々おられたにもかかわらず、終戦前後から運営としての会の歯車は小休止の状態に入っていった。ことに戦後の、どさくさまぎれの様な世相の豹変に咬み合せるには、余りに本質的な大思想であった為かも知れない。だが今、日本の心を救う道は川面先生の提唱される祖神の垂示以外に無いと云う事は、道を識る誰もの思う所であった。かくて立派な先生方は、それぞれの地方に去られ、個々の立場で後進に道を説いて居られた様である。
昭和三十二年の夏、神恵により、ゆくりなくも白土女史に巡り合った。来し方を語り合った二人は、手を握り合って兎に角、稜威会の再建にすぐ動こうと契を固くし、早速白土様と共に目黒の我が茅屋で川面先生の教学についての勉強会を始めた。おにぎりの手弁当に我家の井戸水の接待であるが、戦後の指針に迷いしかも真実を手探りしている市井の人々が次々に聞き伝えて、週一回の集りを実に楽しみにして来て下さった。殆んどが新顔の方で、講師には中村三郎先生を迎えた。
「時は今、いでや君たて、ますらをの友」という川面先生の御直筆の額が我家にあるが、父はこの御遺墨を大切に掲げ稜威会の再発展を心から願って動いて居られたが、時に年令は八十余才であった。
同じ時期、小島倭夫先生は「川面凡見先生偉業顕彰会」を組織して熱心に活躍し始められた。やがて私共もこの御通知を受けて度々会合に出席させて頂いた。
昭和三十四年、ふとしたきっかけで親戚の者から多摩墓地の空墓地整理の話を聞き、これは大変と再び白土様と手をたずさえて都庁に飛び込み色々真相を調べた。果たして未だ空墓地のままである稜威会同人の為の墓所は取り払いのリストに載っていた。あわてて要人要人の間を廻って社団法人稜威会の意義や実情を説明し、墓所の既得権取り払いを止め、新しい規定に則って同人墓地として許可してもらうべく役所通いに時を費やした。そして役人の言われるままに、もう故人になっていた当時の名義人の調印を求める為めその相続人の移転先を捜し、尋ね訪ねて新潟、神戸と飛んで廻った。また此の墓地問題の書類作りの為、是非とも小休止している社団法人稜威会の陣容を至急に整備する必要に迫られた。まず故人名義のままになっている富岡宣永会長の後をどうするかが先決問題である。例により二人の女が手に手を取って、当時御多忙を極めておられた神社本庁総長の富岡盛彦先生をお尋ねし、陳情を重ねた。「今時社団法人の運営はむづかしいから」といって中々首を縦に振って下さらなかったが、無理押しし遂に四代目会長をお引き受けいただいた。尚、色々の書類作りの為に関係各処の登記所を廻り、旧い記録を漁り廻ったり、新しく会員名簿を作って員数を揃えたりした。昭和三十四年真夏の暑い最中を、デブとヤセの女二人が手を取り合って (白土様は太っておられる上に足がお悪いので常に私がお手を支えていた)、盲蛇に怖じずの筆法で手土産さげては法規の暗さを丸出しにして役人の間を、おじぎしてお百度参りする恰好は戦後ならではの弥次喜多風景であった。
新会長のお陰でトントンと評議員も決まり理事も決まり、青山国蔵先生も再々神戸から上京して下され、諸事が進展してようやく同人墓地の許可も得られた。また色々な事業も定着していった。同人の中から川面先生の御教学に関する個人出版もなされた。中村三郎先生著「親譲乃道」(昭和三十四年)、「ああ皇祖様欽仰し奉る」(昭和四十三年)、庭山信郎先生著「道」(昭和四十五年)等は大部のものである。また白土仲子女史により和英両文で海外向けの川面先生御紹介の小冊が出され、現会長富岡興永先生によって昭和四十年米国クレアモント大学で開かれた第一回日本神道研究国際会議において各国の代表に広く禊の道を紹介することが出来た。また四十二年我国において開催された第二回神道研究国際会議の折には、富岡盛彦会長や中西旭理事のお力で、世界神道会議の団長ジャン・エルベール博士を度々稜威会にお招きして、我が祖神の垂示につき述べていただき、大いに世界の宗教界との交流が行われた。また後の事であるが、昭和四十八年より四十九年にかけて富岡興永副会長、中西旭理事、白土仲子女史の肝煎りで川面全集を広く海外の大学や図書館に寄贈した。
この全集は四十年記念事業として再版されたのだが、これと前後して既に品切れになりかかっていた教典第一巻を川面恩師のたった一人の御甥で秘宮を守られる堀内道男先生が自費で再出版なされて稜威会に御寄贈下さった。続いて会として仮装ながら教典第六巻も補充印刷をすることが出来た。又山崎政三理事から何か禊の講話に適切なものを寄贈したいと云う御相談を受けたので恩師川面先生の代表的な御講演録の一つである『建国の精神』を再出版しその寄贈を受けた。又遠く新潟ではかつて恩師から健筆をもって立てというお墨付を頂いていた庭山信郎先生が全集の精神を近代的文章で要約された『道』を自費出版大部ご寄送頂いた。文語体に弱い戦後生れの学究達がこの教学を識るのに大いに役立っている。
さてこの川面全集再版を機に、その全集研究会が河戸博詞理事の御努力によって、実に丸二年半続けられたことも有難いことであった。そしてそれと前後しつつ会の運営は一層具体的な面に展開されて今日に至った。
翻って面白く感じられるのは年々斎行される川面祭のメンバーと、其の直会に於ける雰囲気である。戦後間もない頃は、各種の精神運動家達が多く、日の丸の旗を振って泣かんばかりに自説を述べられる人もあり、色々な角度から声高に悲憤慷慨される方々もあった。そういう人々が一堂に集って川面祭に参加されたという事は、いざという時、一朝事あって人々が道に迷った時、川面先生の示された祖神の垂示が如何に重大な真実であり、世の人々の灯台であるかという証明に外ならない。そして年と共に世も落ち着き、それに従って年々集られる顔触れも変り、その醸し出す雰囲気にもその年々の特長が観られた。世相の反映だろう。最近は内省的に道を求められる人々の真撃な姿が多く感じられる。
川面先生の御教として最も大切な禊は戦後未だ落ち着いていない時期から故理事行弘先生によって「大日本禊会」と称して冬は神奈川県の鵠沼、夏は同じく神奈川県の大山で続けられていた。まだそれは戦後の稜威会としての統一事業を待つというよりも、止むに止まれぬ個人の真の動きとして呼びかけられたのであった。やはり初期に集った人々の中には世の動乱を非憤しつつ道を求める変わり種とか、気骨が露わに出ている慷慨派といった人物も多く、鎮魂と云うよりも喧々囂々荒行に来たという一見気ままな感じも見られたが、大腹中の行弘先生は笑顔でぢっとこれを包み込んで居られ、時に一発大雷大目玉で見据えられ一同しゅんという幕もあった。これも年と共に旧会員等地方から馳せ参じる程になり自然整ってきた。其の後富岡盛彦会長のお力添えで本格的に稜威会の事業として神社新報にものせる様になり新人の参加も増えてきた。NHKが禊の放映をしたり、或る時には海外の国営のニュース班がエルベール博士の再来日と共に来て、厳冬の鶴沼の海の禊に共に飛び込んで、ずぶぬれになりながら撮影し、これを諸外国のテレビで放映した等の事もあった。
川面先生が夏禊の場所として相生の滝を開かれた軽井沢二度上げの禊は、終戦間もなく中村先生が一、二回個人的に修禊されたことがあったが、三十年に青山国蔵先生等川面先生直門の長老方何名かの肝煎りで私共に呼びかけられ、旧会員等が集って思い出深い禊をした。その時はまだ、先生御在世中と同じに草軽電鉄が雄大な高原の景色の中を走っていたが翌々年には取り払われてしまい、今では往年を思い出す語り草になっている。この時の禊が戦後の二度上げ
禊の皮切りだった様に記憶する。その時、今は御老齢だが浜垣先生なども矍鑠として居られ、また今は亡き赤須通美様等にもお会いできて嬉しさは尽きなかった。話は横道にそれるが、この禊がきっかけで浜垣先生(川面先生御晩年迄よく役所の帰路大久保百人町の本部に廻り、夜半まで先生の口述を筆記奉仕された人格高潔の凡帳面な真心の厚い方である。)は其後関西方面で同志を得、盛んに禊をなされる様になり、道彦としての足跡は遠く四国に迄及んだ。さて、二度上げでは続いて小島倭夫先生と堀井太郎さんの発起により、中村先生もお呼びし、国本女子高校の有木校長も参加され修禊が盛大に行われたが、この事は一度だけで其の時のメンバーとしては後が続かなかった。
其の後、国本女子高校から私の所に電話があって、国本女子高校の夏の行事として今後女高生の禊を正式に行いたいから、道彦をと校長に依頼された。私は色々考えた末、新潟方面に戦前戦後を通し、此の道の為に健筆を振って居られる川面先生直弟子の庭山信郎先生をお迎えすることにした。そして其の後も引き続き御老齢を押して御指導を戴いた。或る年など一夏に三回も庭山先生をお煩わせした事があった。八月上旬国本、中旬稜威会、下旬神霊協会(古くからの稜威会会員宮沢虎雄先生の案内による)の指導であった。やはり国本の禊も世相を映し年々実に色々な姿があり盛衰があったが、真の日本人をつくるには若い女性の禊からと云う校長の堅い信念に依り良く続けられた。庭山先生御隠退後は女生徒には女の道彦でという事で、私が長年道彦として国本高校の修禊は継続されている。
稜威会の修禊は、仕事を持つ社会人の集りである為なるべく足場の近い所という希望条件も多かった為に、初期幾年かの間毎年場所選びに心を遣っていたが、国本高校が参加を申し込まれた年から結局環境として二度上げが最高ではないかという意見が杉田安三氏と私の間で一致し、爾来、夏は殆んど二度上げで開催している。国本が八月一日から、稜威会は八月中旬以後と、これは参加者の勤務の都合を考慮して決めている。この滝と道場に関しては愛敬様御一家のご協力が大きい。冬は殆んど鵠沼海岸だが、成瀬様のお宅を煩わし千葉県の白浜で催したことも再々ある。距離としての不便はあるが、厳寒時にも花畑に花が咲き揃い、温暖でなかなか良い海である。
毎年の事だが、禊に参会される方々の中には、病み付きの様に一年間なり半年間なりを待ち焦れて飛んで来られる芯からの禊党もある。この方々は、健康の上に家庭の中に事業の上に顕幽一如のみいづを、はっきり体得されるからだと言われる。私共道彦をさせて戴きながら、この方々に逆にその一挙手一投足の中に、実に教えられる事が多い。
また新たに体験された方々も修禊後は殆んどの方が賛嘆して帰られる。だが一般の場合、仕事の関係上なかなか五日間の休暇が取りにくいと云うのが実情である。
禊が国民の常識になる程に、これを世に浸透させたいものだと思う。
「川面凡見先生五十年祭記念会報」に結びの言葉を書いてから、また十年の歳月が立ってしまった。改めて、省みると、社団法人稜威会の三代目の会長が富岡宣永先生であったので、戦後に四代目の会長をその女婿、盛彦先生にお願いした。勿論盛彦先生も恩師川面凡児先生の直門である。それ等のご縁で、一時富岡八幡宮社務所内に稜威会本部の仮所在地を置いて戴き、そこで戦後の混乱期を四十年祭・五十年祭を経て、そのまま五代目会長も嗣子の興永先生に受け継いで戴いた。その間、出版、研究会、国際交流、等々に活発な行動を続けた。禊も、夏・冬、必ず開催された。
いづれも各々自腹を切っての仕事である。だが、世の中も段々と落ち着き、稜威会独自の道場が必要に迫られてきた。
幸い、期満ちて、在来からの、先生ご帰幽後最初の記念事業として手に入れた土地と道場、現在の練馬の所に帰える事が出来た。この事に関しては、恩師川面先生の愛弟子、新村潔知先生の並々ならぬご努力が有った事を附記させて戴く。亦、信仰深い笠原謙一氏の継ぎ力も陰に陽に働いて大きい。かくて、練馬に戻ってからの会長には恩師川面先生、初期からの門人、舟橋満先生に六代目を継いで戴いた。かつて、すでに昭和十四年度出版の全集が残り少なくなっていたので、画家の舟橋先生に図案のご執筆を願って、新しい美しい装丁の全集が再出版された。それは、昭和四十四年であったが、それもやがて売切れたので、昭和六十年、その全十巻の三度目の刊行となった。
七代目会長が、中西旭先生である。現会長になってから、先づ会計の形式を手始めに色々と新態勢に合った制度作りがあり、それぞれ役割の分担も決った。編集部員が決まり、恩師川面先生のこ遺稿を中心に故先輩の論著、又、禊行事の現状や会員の動向を載せたものが是非欲しいと云う事になって、それを季刊誌として発行することになった。
藤田又四郎・青葉淑光・横山真治・野坂晃史等の各氏が毎回集り、中西会長もその都度出席され丁寧に指導下さった。
また、編集については、専門家の大井道彦氏のアドバイスも大きかったが、何と言っても野坂氏の熱心な中心的奉仕作業に依って一号より現在の三十五号まで発展的に刊行がなされている。なお、出版部の成果を挙げた仕事の一つは、『大日本世界教教典』を平成元年二月十九日修正、川面先生帰幽六十年祭記念版(第二十九版)として、持ち歩きも軽やかな新感覚の清楚な装丁で新らしく復刊した事である。これはかなり前々から改訂を心掛けて来たもので、現在の決定版である。この修正に関しては、編集部の全員が当ったが、特に横山真治、野坂晃史、大井道彦の三委員のご努力が大きい。これら出版活動と並行し、同じメンバーで全集第三巻「天照太神宮」の勉強会を始めた、これには古文や漢文に堪能な大井氏が毎回読み下しのテキストを作って持ってきて下さった。勉強会の晩は宿込みで翌日に掛け一日禊を修したいと云う希望が当時若手の横山、野坂、両氏の間から出、早速、藤田氏がこれに応じられた。因に、藤田家は禊熱心で綾子婦人は五日禊には必ずお粥の世話を引き受けられた。
さて、話は戻るが、帰還当時のこの練馬の旧道場は、その設立に当って、伊勢神宮を始め各宮家、全国多数の神社、また会員としては堀居太郎氏を筆頭に高志ある全国の方々のご寄進を頂戴している。総桧の平屋建で破風造りの玄関を構えた格調高い純日本建築であった。ここの土地については、かつて恩師川面先生が「良い土地である」とのお言葉が有ったとかで、常に師のお側にかしづいていた中村三郎先生が師のご帰幽後、是非ここに稜威会の本部道場を建てたいと念願し、この土地に通いつめ、晴雨に拘らずその空地の一寓に立って禊し清めに浄め続けられたのである。そんな或る極寒の日、肩に白く雪の降り掛かる中で、相変らずお地蔵さんの様に立ち尽して振魂をしているとご近所の主婦の方が見かねて温かい湯茶を運んで下さった等の逸話も伝わっている。
この様に由緒ある道場ではあったが、戦時中に爆撃された残骸処理の事もあり、老朽化も進んで居たので、これを解体し新しく建て直して、既に近代様式に馴染んでいる戦後育ちの若者達の集り易い感覚にと、現在の道場は近代的設計によって建てられたものである。
この建築に際し、旧道場解体について荷物の移動長期保管の場所を提供して下さる、等々、稜威会初期からの会員、青山国蔵、政一両ご兄弟とその嗣子青山利男特殊鋼社長お三方の引き続いての陰のご支援も多大であった。この構築事業に関しては、特に現会長を中心に会議に会議が重ねられた。その間、事務局の努力も大変なものであった。尚、本部道場建築に引き続いて屋外禊場の大改築をした。一部植込を切り払って石畳の面積をずっと広くし、中央に天の真井を拝する趣向を持って小高く山の形に石積みをし、その頂きから滾々と湧き出る自然の水の姿を摸して井戸水をモーターで汲み上げ、水道の水も利用して水量を豊富に、しかも修禊時の人数によって自由に水量も水の溜る場所も調節出来る様に構築した。
道場に続いてこの禊場の完成により、一日禊は勿論、桃、菊、春秋の定例禊も滞りなく本部道場で斎行出来る様になった。夏の禊は、師川面先生の開かれた聖地二度上げの滝である。ここは山奥の為、未だに電燈がなく百目ローソクの光に頼っている訳だが、近年浦野智雍氏の奉仕により毎年自家発電機を持参されて参加して下さるので実に有難い。冬は海だが禊に適した奇麗な海水の浜が近くに段々得られなくなるのが今後の問題である。
この禊行事は本部主催のものばかりでなく、南から北まで要請によって何処へでも参加出張するが、そこには必ず熱心な中心的人物が何人かいてその統一された行動には教えられるものが多い。だが、九州での場合、初めの種まきは古くからの会員、石黒政重氏がたった一人で計画から動員までされ成功を収められた。その熱意と行動力には敬服する。恩師川面先生は昨今の世の乱れ、人々の行きづまりを夙に見通されてか、『自分の没後、会が衰微する様なことがあっても、自分は必ず道の為に生れ更って来るからそれ迄は皆で細々でも可い、祖神の垂示のこの道を絶やさない様に』と言われたのは、石黒氏の様に一人でも立った信念も皆に求められたのでは無いだろうか。また、自分は必ず道の為に生まれ更って来ると仰ったのは、究極には、この道でなければ人類は救えないと云う先生ご自身の一大信念の発露だと思う。先生は、また『自分は天の巻を説いたから、これからの皆は地の巻を解く様に』とも仰られたと聞く。科学の発達と共に互に個々の自利自我の立場からものを考え、もう、にっちもさっちも行かなくなった現在の人々の感覚に高邁な天の巻だけでは喰い付け無い場合もある。混迷する世相の中で、日々の生活事象や感情の動きに対しケースバイケースの噛んで含める様な「地の巻」も共に修禊の外郭的働きとして今の人達に要求されているのではないだろうか。教典第六巻「禊後の心得」に示されている修禊後は、仏典・聖書等何でもこだわらずに修養の書を読めと言われているのは、先師がこの辺の消息を指し示されておられるのではないかと推察する。
故語に「家、貧しゅうして孝子現われ、国乱れて忠臣出づ」と云う言葉があるが、近頃特に各方面からの優秀かつ熱心な参加者があり、真摯に道を求める若い方々が増えている。この現象は一般に時代を憂うる人々が出てきている世相の反映か、心強い。
稜威会では、現道場の完成と共に「大日本世界教」の発展のために新潟から諏訪神社の登石昇宮司が大志を抱いて出京され活躍を決意され当道場の常任理事を兼任された。後継者にはご祖父の代からの会員で生れながらに道彦と命名された若手理事大井道彦氏が控えている。浦野智雍氏とその令息、又赤須通範氏、藤田浩氏三兄弟、愛敬峯雄氏・和夫氏の兄弟、等々禊熱心で現在稜威会に貢献され、或は、社会の中堅として活躍されている将来道の為に尽される
有望な二世・三世の若人方が多々居られる。全べて継承と云う事は根強い。今の当会の監査役は、高山亨宮司と青葉翰於氏であるが、青葉翰於氏は二代目であり、特に高山亨先生はご祖父が川面先生ご在世中から禊の道の大支柱であり、神職会切っての大宮司であられた高山昇翁と母方の葦津耕次郎翁の孫に当られ、乃木神社の現宮司として常に内外から大きく当社団法人稜威会を支えて頂いている。
これから万華万有の指針として世に求められる大転換期、稜威会の使命は重大である。
(平成五年六月二十日)