禊の誕生(5)

禊の誕生(承前)

川面先生と奈雪鐵信翁

鬼谷僊史

 つづいて二十一日、二十二日も例の通り朝夕二回の御神前の行事を終って、奈雪翁は心静に神慮りしつつありし際、突然相州大山高津神の襲来に会し、一室に雄健び始めたが、間もなく天狗は出ていったので、奈雪翁の八千魂も安らかに鎮定し、川面先生は雑誌大日本世界教の原稿に筆を走らせ居られたが、折から夜も既に十二時過ぎであったので、寝床に入って眠りに就いたが、その後夜もだんだんに更けて行って、今や丑満ごろになり、所謂屋の棟が三寸もズント下って来る自分になって来ると、物あり、忽ち夜の静粛を破って西の方から宿屋の建物をグラグラと揺り動かすばかりの暴風が吹き起って来た、それと彼是同時に亀屋の戸がバタバタと倒れて仕舞ったのでしたが、一室に禊ぎ疲れて寝て居った満面髯だらけの奈雪翁は、忽ちガバと牛起きに床の上に刎ね起きたかと思ふと、暗中何物かに向ってウント力任せに組み付いたが、これを知るものは、ただ川面先生ばかりでした。それと同時に亀屋の部屋々々の戸障子などが悉く一枚づつ外づれて倒れ、畳は一枚々々独り手に自分で剥がれてツッ立ち上り、これから何事が起って来るかと、人をして身の毛も弥(よ)だたせるやうな大騒ぎであった。

さて奈雪さんは、天狗に負けたのか圧伏せられたのか、全身瀑のやうに汗を流して苦るしみ唸り、今にも絶え入るかと思はれるるやうであった。

亀屋の主人夫婦は、大に驚いて飛んで来て、夫婦諸共言を揃へ「これはまあどうしたので御座いますか、御病気ですか御発狂なさったのですか、今夜のこの騒動は尋常一様の事ではありませんが、どうしたならば宜しいでせうかと云って訳を知らねば恐れ悸き、何と詮すべもない為態(ていたらく)であった。

川面先生は気の毒がられて床の上に起きられ、言葉静に夫婦に向って「ナニ決して心配下さるな、病気でもなければ騒動でもありませぬ、かうした事は吾々共の間には常に有り勝ちのことですからして、安心なさって早く寝て下さい、先日奈雪さんが前以て御主人に今後向ふ一週間の間に、どんな異様な事があっても、決して驚いて下さるなとお断り申して置きましたのは、かやうな事のあった場合に対する用意であったのですから決して心配せずに居て下さいと仰せらるれば、夫婦のものは、面に幾分安心の色を見せて、不安の中にも安堵して一種の恐れを抱きながらその臥戸に下って行ったが、この間にも奈雪さんは、ヱィヱィ声して全力を注ぎ、盛んに天狗と組打ちをやって押しつ押されつ、押されつ押しつ、五花八門、虎闘牛角、壮快物に譬へやうもなく、実に目覚ましい光景であったが、川面先生は窃に一種の御神文を唱へられ、神慮理に入ってゐられると天狗は程なく去って、奈雪さんは平生に復し、四辺は復びもとの静粛さに還って、何等の異状を認めぬ夜になって仕舞ったのであった。

明くれば二十三日となりました、昨夜高津神に襲はれた奈雪翁は、元気更に百倍し来り、その眼光と云ひ、その伊吹と云ひ只人とは見へず何人でも一度その眼光、その伊吹に接せば、これはと驚き近づき得るものがない位でした。これ実に奈雪翁が漸く霊境に入りかかり、何物をか得んとする前兆であったのです。奈雪翁は今日も亦例の如く潜海を了りて、家に帰り、例の如く更に拝神の式を修め深く神慮りに入られし時、川面先生はここぞと神機の熟し来る時とを思召してか卒然と起たれて、イーエッと一声、奈雪翁の脳天を一打して問ひを発せられた「あなかしこ、天御中主太神は今何を為し給ひつつあるぞ」と翁は肚膽(どぎも)を潰し、何と答へていいやら、その辞に窮して、ただ茫然たるばかりであった。先生は席に復られ、筆を執って静に禊中の神慮りを認めつつ居給ひし時、翁は炎(ほ)の赫灼彦(かがひこ)の如く、八種(やくさ)の雷(いかづち)の如く、猛びて幾度か答へ来れども悉く不成功に終わった。更に大広前に向ひ、大祓詞、大吉詞等を読み、大名称を唱へまつること幾千万遍深く鎮魂の底に入って吾を忘るるに至った。先生は復び翁の脳天を打して激励を与へ、共に夕拝式を了ったのは午後の十一時で、夕餐は午後の十二時であった。

愈二十四日の終禊期となった。先生は奈雪翁と共に、例の如く払暁床を出でて雄健び雄詰びつつ、荒海に禊して後、拝神の式を行ひ、朝餐の後、先生は雑誌世界教の原稿を草せられ、奈雪翁は神慮に入って、前日来先生より与へられたる難問の答案に焦心し、恰も正午の頃にやありけん、翁は磐裂根裂(いわさくねさく)の威勢にて、答へ来たられしも猶未だ至らざる所ありて、先生より叱咤されては去り、去っては又来り、幾十回か先生との問答の末、午後の四時ごろに至って、始めて悟證することが出来た、則ち直霊を開発し得たのであった。。これを禅家に譬へて言はば、所謂見性悟道本来の面目に接したので、奈雪翁は茲に始めて先生より印可證明されたのであった。印可證明とは、禅家の免状で今日の言葉を以て云へば、卒業証書を授与されたのである。則ち奈雪翁は、川面先生より直霊の開発を認められたのである。

アゝこの人にしてこの妙悟あり、流石に平生この道に熱誠なる奈雪翁なればこそ、僅に一週間の行事にて、この大難問題を悟了し得たのである。若し世の尋常の人であったならば、一年も二年も努力を要すべく、否一生を経るとも終に解決を得ずして、空しく彼の世まで疑問を齎らして逝くものも少なからざるに奈雪翁のこの喜びは、それ果して如何なりしぞ。この時、奈雪翁は涙を垂れて、厚く先生にお礼を陳べられて曰く、私はこれで鬼に金棒ですと、先生も亦大に喜ばれ、相共に大広前にぬかづき、更に天津御空を仰ぎて、限りなの感謝を表せられたとは、これ記者が川面先生と奈雪翁より、親しく聴き得た所である。

奈雪翁の如きは、川面先生に未だ師事されざる以前に於て、既に弘法大師や、帝釈天などと善く談じ善く語り居られた事は翁より記者が親しく聞き居る所である。木仏や画像と、自由に問答することを得るの境涯に進まなければ、如何に長広舌を振るって、仏法を説明したればとて、畢竟空言空論の人に過ぎない、川面先生の霊魂観を体験体得すれば、案山子と自由に問答し得ることも、亦、可能であることは、川面先生の御生前に於いて、幾たびか吾等がその御教えを承りたる所である。

この第一回に於ける、川面先生と奈雪翁との片瀬寒中禊の一週間は、殆ど昼夜ぶっ通しで、夜中に衾を蹶って、出でては海に投じ、朝夕の炊事を始め、洗濯その他、身辺の用事万端、先生と翁と、自分自身にこれを弁じて、一切旅館女中の手などを借りず、極めて厳粛の中に行はれたものであった。この後禊の話しさへ出ると、先生は常にお笑ひなさって「相模灘第一期の寒中禊に比すれば、この頃の禊は、実に贅沢なもので、大名禊にあらざれば、将軍禊とも云ふべきである」と云って居られました。

今や川面先生神去り給ふてより、既に三年を過ぎ、奈雪翁逝いいてまたここに二年余を閲みす、想ふて稜威会の現状に到るとき、転た今昔の感なきを得ない。川面先生の遺し置かれたるこの神道的大公案たる「あなかしこ、天御中主太神は今何をなし給ひつつあるぞ」に対して、奈雪翁以後、果して何人かよくこれを解決し、実行しつつあるぞ、川面先生の神典宣義と云ひ、また、天照大神宮と云ひ、或は古典講義録と云ひ、その他總ての先生御一代の御著書は、帰する所、この「あなかしこ、天御中主太神は今何をなし給ひつつあるぞ」の大神秘を啓くの御手引に外ならぬのである。吾々は、川面先生の遺し置かれたるこれ等の尊き神典を拝誦すると共に、ただその理義や、解釈に落つることなく、また、禊祓の神事を修行するにも徒らにその型式に流れず、驀直に神秘の関門に突進して、その霊扉を打開するの大勇猛心がなくてはならぬのであります。幣を動かすばかりが禊ではない、雄健ぶばかりが禊ではない、祝詞を奏し振魂をするのみが、禊ではない、潜海浴水ばかりが禊ではない、天の鳥船運動に壮快を感ずるのみが、禊ではない、病気を癒やし健康を促進するのみが、禊ではない、茲に繰り返して云ふ「あなかしこ、天御中主太神は今何をなし給ひつつあるぞ」禊の最終目的は、ただこの大問題を解決実證するにある、彼の禅家に於ける、白隠の隻手の声や、趙州の無字や、その他の所謂千八百の古則公案より以上のものにして、日本神道に於ける、最高無比の奥伝たる、所謂八心思兼神の神量なるものは、この大問題を解決し得たる後の神通妙用なりと知るべきである。

終りに臨み、奈雪翁が、川面先生より伝へられたる秘事のかずかずは、所謂秘事に属するを以て、口に之を語ることを得ず筆に之を記すことを許さず。(そして三十近い秘事が伝へられたと云ふが、詳細は不明であります。思ふにその力量に応じて与へられたものであって、それ以外は「道」に悖ると考へられたと思はれます。)

要するに、奈雪翁は、六神秘事に通暁したる英霊漢で近来稀なる大行者であった。

以上の外、不溺水伝、不焼火伝、又は世に所謂千里眼、則ち透視透覚なる者は、我が神道より云へば、奇身魂の飛行にして、或は我朝の昔、役の小角が空中飛行術は、今日の如き飛行機によらずして、一飛直に千里の外に翔る、その速力は、飛行機に優ること百千万倍するものである。これ等の霊術は、我が神道の上より観て、末枝末節に属するもので、深く珍重する程の事ではない。(終)

 

【コラム】 天狗と組討

川面先生、常に記者に語って曰く、君、高津神と一番組討をしない限りは、たとひ百回禊をしたと云っても、未だ真剣の禊をした者とはいへないぞと、求道の訣は、ただ不惜身命の修禊にあらねばならぬ。

人身変じて仙身となり、仙身変じて天狗となり、天狗身化して神明となる。今日大雄山に祀られてある、道了大菩薩の如きは則ち狗化したる実證である。

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和七年十二月号より)