文山見聞記(9)
文山見聞記(9)
中村三郎
某年六月二十一日。此の夜、師の褥裏談片、次の如し。
問、釈尊の所謂正覚は如何。
師曰く、祖道に在りては是れ初門のみ。即ち和身魂を統一調和したる大客観的境裏の忘我なり。換言すれば、天御鏡神を拝したるまでなり。故に彼等の教義では、差別即平等を説くと雖も、差別平等の因って来る所の大根本神を拝することを得ざりしなり。彌陀と云ひ、如来と云ひ、大日如来と云ふも、要は忘我的客観の平等境を認証して、之を指すに過ぎず。
問、我朝の白隠禅師は、釈尊以上に出でたるに非ずや。
師曰く、我朝に在りては、弘法大師丈けは釈尊以上に出でたるならむと思ひたれども、依然釈尊を凌ぐまでに至らざりしものの如し。
師更に語を続いて曰く、漸くにして此の世に生れながら、自己の過去を知らず、未来を知らざるもの程憐れな者なし。人間として生まれ出づるまでには、克く克くの骨折りなりしを打ち忘れ、あたら人間に生れて、己一人の妄見、独断、謬想に住着し、為に其の宏遠崇高なる三世一貫の大生命を、強いて短く、浅く、狭く、小さく解釈して、己が多幸なるべき前提を遮断し閉塞し劣弱するとは何たる浅間しき見識ならずや。これを思へば真に気の毒じゃ。何れの宗教を問はず、信仰の目標ある者は幸いなり。たとひ其の信仰に、文野、高卑、深浅、厚薄の差はありとも、死後必ずそれ丈の果報があるから、敢て遅疑したり、頓挫したり、彷徨したりする様なことは断じてない。
人間として如何なる善根も善にあらず。多くは悪根の不善が累積するものなり。死後の生に、我が最も力となるものは、神を思ひ、神の御名の称への一事なり。正直に世渡りせばそれにて足れりと思ふは、方今学者の大誤りなり。見識狭小なるが故に、斯かる孤見に自ら満足するにも至る。教へず、学ばざるの罪なり。信仰は、金も時間もかからぬことなれば、誰人も早く三世一貫の信仰に入り、顕幽一体の安心立命に就かねばならぬ。
六月二十二日。食後の清談中、偶々雄健雄詰(おたけびおころび)の事に及ぶ。
問、十方雄詰した其の室、独り火災、盗難を免れるの理由如何。
師曰く、神我一体として雄詰すれば、其の伊吹は永久にその室に留まりあるものなれば、火災や盗難に際し、其の伊吹は、猛然活動を始めて、その災難を弾発す。怪しむに足らず、当然なり。単に伊吹にして既に然り、況や人をや、大丈夫に於いてをや。
師更に誡めて曰く、民心如何程混乱分裂して、国家危急に瀕すと雖も、ただ一人の達識の丈夫出て、猛然、敢然、泰然として、千万人とも吾れ往かむ底の活動を開始せば、克く衆愚、衆俗を摺伏して民心茲に帰向統一し国家は安泰となる。神は、是の人を護り、其の業を助け、其の事を導くものぞ。我国古来真に如是の人を求めば、加茂、本居両大人を除きて、それ何人ぞ。
六月二十三日。夜十二時、師御帰宅。中村や。俺等は貧乏しても神様の寵児じゃの!喜ばねばならぬぞ。と仰せられ、一歌直ちに成る。
身雖栖陋巷。 心凌九天高。
家不出五歩。 想向大空翔。
筆底蛟龍捲。 風雨出洞窟。
洗濯万象拝日月。
次て褥に就かる。予亦愚問を発して師の安眠を妨ぐ。
問。神憑を以て己が人格を向上し、或は直霊を開発し得るものなるや。
師曰く。否々。神憑中は只だ吾知らず和身魂に映ずるままに、予言し得るに過ぎず。直霊啓発と謂ひ得ず。
問。憑り来る神には、狐あり、狸あり、蛇あり、蛙あり、龍あり、天狗ありと。果たして然るや。
師曰く。術者の中心確立せず、人格ならざるに先立って之を修する時は、悪霊外神の憑依し来るものなり。故に、綾部の大本教の如く、誰彼にも之を授くる時は非常の失態あるべし。だから稜威会に於いては容易に之を許さず。
問。誰人と雖も其の方法に従へば容易に神憑の状態に入り得るものにや。
師曰く。爾り。
(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和六年一月号より)