文山見聞記(4)

文山見聞記(4)

 

中村三郎

 

三月十日、守島氏昨夜悪夢を見しとて、之を気にしながら、例の調子で語る。隣室に読書して居られた師は、之を聞かれて

「守島や、その夢をナ、紙袋に入れて口を結んで川へ流して遣れ。その時にナ。

ゆうべ見し夢の禍(まが)ごと 流しやる

幸(さち)となりつつ またかえり来ね

と云ふ歌を三度唱へてやるんだ。ソーすると必ず其の夢が福の神様となって、今日は!と言ふて飛び込んで来るよ。ドゥだ守島嬉しかろうがナ。」この時、守島氏満面の喜び方。同人諸君、今年の初夢から試して御覧。昭和五年は人も我も福の神に請け合うなり。芽出度し芽出度し。

本号は正月号ですから、モゥ一ツ芽出度い記事が次に出ておりますから其の儘載せます。

三月十六日、名古屋市議事堂に於いて、菊花会主催にて師の御講演あり。演題は「建国の精神」。壇上の師、身辺に金色の光彩を発し、その頭上尺余に紫色の霊瑞あり。此の際、師の意気や豪。師の心不動。師の身や泰然。十時講演終わり、旅館丸文に帰り、師に今日の瑞相を問う。師曰く、「見えたか」。

 

◎全勝の一手

一日、菊池秋四郎氏(*1)が来訪せられた。氏は槍道の達人で、自ら道場を開いて門弟に教へて居られる程の人である。又、大の角道通で、特に鳳(*2)がヒイキであったらしい。然るに鳳は今年の春場所から成績甚だ振はず、敗又敗の醜態之を菊池氏は非常に無念がって、何とかして鳳に勝たせ度ものと思ふて、今日川面先生に相談に来られたらしい。師曰く、「それなら易いことじゃ。角力にも柔道にも共通する妙術があるからこれを授けて置こう」と。菊池氏は非常に喜んで、「然らば早速鳳を連れて参りませう」と立ち上がらんとするを、師は制せられ、「それは不可(いか)ぬ。あーいう芸人に術を授けたとあっては世間に対して心苦しい。君にそれを教えるから、君から彼に伝へればよい。俺の名は決して出さない条件附きでなァ」と。氏を別室に引いて其の一手を授けられた。氏の喜び一方ならず。「これさへあれば、鳳万歳。横綱も嘸(さ)ぞ有り難く思ふでせう」とて、勇躍して去られた。その後果して鳳は全勝。

 

◎人ごころ

或る日、予は何かの言葉の序(ついで)に、「先生!せめて教典だけなりと同人に施与することに仕度いものです。精々骨折って経済を立て直しませう。」と申し上げた。此の時師の仰せに、「経典のみと云はず、著書も昔は皆施与してきたが、之を受ける者に誤解もされたし、又御礼する者も百人中二三人位はあったらうがナ。貧乏所帯では到底遣り切れぬからナア」と。以て人心の機微を知る。

 

◎染筆の初謝礼

嘗て某氏の請いを容れて書かれた御神号が画箋前面にいと神々しく立派に出来上がった。翌日、某氏来られたから、之を御渡しした。某氏非常に喜ばれて、清酒二本を師に贈られた。客去れらた後、師も何時になく喜ばれて曰う、「ああ有り難い。今日まで人に幾百千枚書いて与へたか知れないが、謝礼が有ったことは極めて稀だった。ああ、是こそ有り難いと云ふものじゃ。」

 

◎三千年の友

越後の同人、瀧本義雄氏(*3)、師に見えて大いに今後の発展策を献言された。師曰く「吾は生前一人の友なくとも死後百万の友あるを期す。生前仮令(たとえ)百万の友あるも、死後一人の友なきを恥づ、三千年後にも至らば、吾が道立たん」、客驚きて啞然。「ハア―。そうですか。」

師曾(かつ)て『白帆衝雲昇富士』と云ふ一句を口吟せられた。時に東秀生翁、之を聞いて嘆じて曰く「アァ、是れ、碧巌集中にでもみえそうな名句だな。この句あり、如何ぞ之を完成せざるべけんや」と。師則ち一室に入り瞑想沈思時余にして成る。予も傍らに在りて、「之を自画讃にして残して下さい」と頼む。師快く予に紙を展べしめ、筆を揮って一気に書せられ、「画はこれが初めてだ」と呵々大笑せらる。左にその詩だけを抄録す。曰く

『漂渺烟波千万里。

水天一碧無際涯。

春風不識起何処。

白帆衝雲上富士。』

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和五年一月号より)

 

(*1) 菊池秋四郎氏 検索すると「奉天二十年史」や「哈爾濱と奉天」などの著作の著者として出てくるが、その人だろうか? 槍の達人だったかどうかはわからない。

(*2) 鳳 谷五郎(おおとり たにごろう)、大正四年六月から大正九年五月まで横綱。

(*3) 瀧本義雄氏 直江津商業銀行取締役。新潟の資産家だったらしい。