文山見聞記(3)

文山見聞記(3)

中村三郎

(前回の続き)

若し此の要所要所に、一…一…一…、の締め括りが無かったならば数ではない。若し計算もできない。何処までも単に一、一、一…と無限に書いて見た所で仕様が無い。

之と等しく、宇宙の大も、差別の個々万有があるから実在することが出来るので、若しトロ一面の平等であったならば、実在することも在り得ないと云ふことになる。太神の稜威たる霊、魂、神として万有、万有としての個々の締め括り、締め括りとしての要所要所の統一境涯が健全するから、宇宙の大に拡大し、宇宙の大も実在し、宇宙の大も活躍するに至るのである。

円も中心を定めないと画くことが出来ないと同様に、宇宙も中心なくては拡大し実在することが出来ない。宇宙中心の本体は主観すれば天御中主太神である。万有は悉く太神の分霊分魂分神であるから、万有にも個々皆な中心あり、原霊あり、原霊としての直霊がある。此の直霊が無ければ万有の個々身も発育し実在することが出来ない。国家も中心なければ実在し活動することは出来ない。だから如何なる政体にもせよ。中心としての主権者なきものは独立国でない。国際間に於いても国として認められないのである。

御国は、君民同治ではない。君民不二一体である。君民一体の君主神政の神国である。

一のみにては働き得ない。多があって始めて一も働くのである。又多のみにては働き得ない。一ありて多を摂理し、主宰し統一するから、多としての大活動も出来、大力量も出るのである。一即多、多即一である。太神即八百万神、八百万神即太神である。此の意味に於いて、君民一体の君主神政の神国たる所以も判る。

一は多となり、多復た一となる。斯くの如く転々止まらずとも素より一である。個人も家族となり、家族は一家となる。衆家は一村となり、多村が一郡となる。多郡は一県となり、多県は一国となる。多国は一世界となり、多世界は一太陽系となる。斯く転々して意に宇宙万有は御中主太神に大摂理、大統一せらるる天御中主太神としての全一神である。故に宇宙間に多のみの数なく、衆のみの家なく、村なく、郡県、国家なし。単なる無政府主義、社会主義の在り得べからざる理由、知るべきだ。

 

神代とは経(ふ)りし昔の事ならず

今も神代と知る人ぞ神 (舎人親王)

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和四年十二月号より)

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