文山見聞記(2)

文山見聞記(2)

中村三郎

 

(一)一日食後の閑話に師、示して曰ふ、途中死者の葬儀に出遭はば拝せよ祈れよ、祝福せよ。自他倶に功徳無量なり。禽獣蟲魚の死を見ても如是くなるべし。その方法は

大祓戸大神。大祓戸大神。大祓戸大神。と三度唱へて祓ひ清めて後、是此の亡霊乃至一切法界の衆生、同発菩提心。往生安楽国、南無阿弥陀仏、〰、〰(其の宗派に従ふ)

是此英霊、諸有霊魂、幽顕裏表、三霊魂神、神人万有、本体顕彰、天照大神、稜威煥発、分魂統一、建業立勲、福徳増進、壮快全身、悉帰天御中主太神、経緯主鎮、超楽無窮。

天御中主太神、〰、〰(適宜)

太神大神稜威赫灼尊也哉、太神大神稜威赫灼尊也哉、太神大神稜威赫灼尊也哉。(三回)

死者に対し拍手、拝。

 

(二) 此夜師、伊藤仁斎先生の大徳を称えて曰く、

「仁斎先生は成程大徳だったなァ。先生一日京都市中をブラブラ散歩から、帰宅せられて其の門下に話されるには、『京も仲々広いものじゃ。人は、都の者は薄情じゃと嘲るけれども、怎(どう)して怎して仲々そう計りでもないぞ。今宵市中を独りブラブラ散策して居ると、美しい娘共二三人も駆け寄って、いと懇ろに予を其の家に招待した上、大変ご馳走するやら慰めて呉れるやら、ソレはソレは非常な優遇になって来た。京にも誠に感心な人が居るぞ。人の薄情なのは皆その身の罪じゃ』と。門弟曰ふ、『先生、それは何処の辺りで御座ったか』。先生『ソレあの何條を右に貫けて・・・の其処じゃ』門下曰ふ『先生ソレは祇園の遊女屋で御座いませう。其内沢山な書附を届けてくるでありませう』と。後日果して大変な勘定書が届いたので、仁斎先生も始めて驚いたと云ふことだ。怎うじゃ中村、昔の人は偉いなァ。仁斎先生はさすがじゃの。」

 

(三) 師は或る時数理より観たる祖神の教の題下に左の如き講演をせられたことあり、其の徹底の釈明に、同人悉く感嘆す。

其の要旨に曰く、

誰でも、瞑想して鎮魂すれば、其の始めと終わりに於いて念頭に顕はるるものは〇であり、次は●である。○は宇宙の姿が映じ来たるもので、●は宇宙の中心が反映して来たのである。而して其の●は数を表はすの始めで一であり、○も亦数を表はすものである。そこで一とは何ぞ、イチとは声であって数ではない。一は符号であって数ではない。一の本質実態は、単なる声でもなく、符号でもない。是の一の本質実体を知り得たるもの、古今東西に未だ其の人あるを聞いたことが無い。然るに独り我が祖神の垂示に依れば、チャーンとそれが明瞭になって居る。乃ち一の本質実体は宇宙である。宇宙は絶対なるが故に、唯一なる観念が生じ、一を想像し得る。○も亦宇宙それ自体が鎮魂裏に於いて吾が頭に映じ来たもので、宇宙の姿が○である。故に宇宙の実質観は一にして、宇宙の形式観は〇である。だから一も○も元来同一宇宙の両観であると謂ふに帰着する。そこで宇宙は絶対の実在で如何ともすべからざるが如く、一も○も亦加減乗除することが出来ない。然れども之を仮に二分するとせば二を想像し、四分するとせば四を想像し、乃至八分、十分、無数するとせば、八、十・・・無数を想像し得る。斯く幾十百千万の数に分割想像するとも、總て一の内から一歩も出ることは出来ないのである。丁度宇宙の表観は千差万別の万有であるけれども、モト是れ同根の一体で、いかに万有が千変万化しても畢竟一であると同様である。即ち一中に於いての千変万化であるに過ぎない。だから数も一より九に至って一となりて十位とし、九十に至って一となって百位とし、九百に至って一となって千位とする。斯く如何程累進して見た所で、復たモトの一に返ると云ふ風に分かれては一になり、復た分かれては一になる。そこで始めて数と云ふものが成り立つのである。

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和四年十一月号より)

 

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