文山見聞記(1)

文山見聞記(1)

中村三郎

 

緒言

予は大正七年正月より三年間、先師川面先生の左右に侍して朝夕その謦咳に接し、その薫陶に浴せり。当時本部は上野桜木町に在り。審さに掃除薪水の労、会計庶務の事、接待応対の繁に従ひつつ、先生の寸暇を覆ふて或いは問答し、或いは質問し、或は激論し、或は談笑したるところ又或いは見聞し、或は遭遇し、或は実験したるところを、当時其の都度私かに手記し置き、名付けて文山見聞記と云ふ。既に積んで五巻に及びたり。師は後に至りて之を察知し、其の後世に誤謬を貽す無らむと慮り、爾来師の校閲を経たり。今之を出して一読するに、恩師の面目躍如として表はれ、追慕の念転た切なるものあり。此度其内の重要の部を摘抄して本誌に載す。読者若し、之に依り先師の回顧を新たにし修道研鑽の一助ともならば幸甚なり。

文山敬白

 

文山見聞記(一)

 

其一 餓死すとも道を守れ

二月二十八日(大正八年)

師、夕方帰殿。懇ろに我が為に示さる。

人間は如何程貧乏しても、決して他人に御情けを乞うものに非ず。又之を竊に期待す可からず。譬へ餓死するとも、道の為なれば苦しからず、其の餓死するに至る者は、自己の徳の足らざるのみ。予曾て東秀生と谷中に在るの時、貧乏の極、飲まず食はず一週間も続きたることあり。此の有様を同居の母も兄弟も聞知せず、況や会員をや、アゝ神様は妄りに人を殺さず、七日目に誰かが参拝して、神前に牡丹餅を供へたる者あり、之にて漸く命の緒を取り止めたるなり。

今、吾、不自由するは稜威会の為に貯金し置くに等し、吾の百年後、是の稜威会は大したものに成るべし、塩を甞めても会計の範囲を越ゆる勿れ、他の費目を流用すべからず、又費用余りあるとて奢るべからず、貯えて他日の用とすべし、社会に転変地夭あることを知らざるべからず。

文山曰、『衣食足りて礼節を知る』とか『恒産無き者は恒心無し』とか云ふ思想は、是は全然支那人根性で、日本民族本来の真骨頂ではない、衣食に依って礼節を有無し、利害に由って節操を二三にすることは古来我同胞間において人非人としてこれを卑しみ、之を恥ぢた。日本民族の伝統的信念としては、『腐っても鯛の骨だい』或いは『武士は食わねど高楊枝』と云ふ諺の通り、利欲に因って節を屈し、名利に由って去就する如き奴とは、倶に齢することさへ嫌れたものである。節義とか、礼節とか、人間特有の崇高な徳操は、実に我が伝統的生命の発顕であって、他より来る衣食や金品の中に在るものではない。故に日本人に対して、支那人並みに扱うのは、非常な侮辱であり、無礼の極である。然るに現代の政治屋共が物知り顔に、而も憚る所なく、盛んに這の『衣食足りて礼節を知る』とか『恒産無き者は恒心無し』とかの標語を吐き散らして支那的思想を以て我が同胞を律し去り、我が国民を支那人化することに努めて居ることは浩歎に耐へない。主義者共が一つの陰謀あって、我が兄弟の伝統的義胆を去勢せんが為に、殊更に此の二標語を振り廻はすは、ソコに多少の意義が無いでもないが、国家の選良や、 天皇の大臣や、我国の有識者までが、主義者共の反間苦肉の為に逆用する標語を、何の遠慮もなく、之を口真似して、主義者の術中に陥り、相争ひて我が国民を意気地なしにするとは、ナンと浅間しい世相になった事やら。今の政治屋共に、セメて川面先生の爪の垢でも甞めさせて遣り度い。

 

 

御参考(同ページのコラムに)

毎朝起床前の心得

何人も朝目を覚まし、何程遅くても、むくと起き上がることは大いに悪し、先づ仰向けに寝返り、両足を踏み揃え、指をかがめて左右の手にて、胸より臍の下まで、ゆるゆると三度撫で下し、終わりに丹田(臍下三寸)をシカと押へて、後にそと起き上がるべし。此の如くすれば、其の日何程の異変に逢うても狼狽する事なし。毎朝の癖ともなるまで行うべし。(東秀拾録)

 

毎朝日出を迎える時の称辞

天照大神、天照大神。虔しみ畏みて、太神大神の大稜威と、今日の生日の足日の吉日の大日を寿ぎ奉り迎へ奉る。太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。(東秀拾録)

 

毎夕日の入りを送る時の称辞

天照大神、天照大神。虔しみ畏みて、太神大神の大稜威と、今日の生日の足日の吉日の大日を寿ぎ奉り送り奉る。太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。(東秀拾録)

 

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和四年十月号より)