川面先生御生家の写真に就いて(本編は昨年三月号よりつづく)

川面先生御生家の写真に就いて(本編は昨年三月号よりつづく)

 

飯峰生(*1)

 

昨年三月号にその写真を掲載する運びになった時、この一篇を書きたかったのでありましたが、その後編輯上の都合に依りまして、一時記事を打ち切って置きました処近頃読者諸君から本編のつづきを是非掲載しろといふやうな請求もたびたびありますので今回またその続稿に筆を著けてみることに致しました。

先生のお生まれなさった処は豊前國宇佐郡両川村の内にある小坂といふ極めて寂しい山間の一農村でありますが、この村は非常な山水の勝地であり、昔に於いては国分寺もあり、又七堂伽藍などもあったといふ歴史に富んだ村ですが、川面家はこの村でも一番地面の高い日当たりのいい処に位置を占めて居り、その屋敷は日一日燦々たる日光を浴びてゐるさうであります。今日になりましては最早実物が取り毀されて田や桑畑になって居りますので写真に撮りやうもありませんが、三月号に掲げてをきましたあの写真は、母屋の東側にあった「稚龍窟」と命ぜられた別館でありましてそこには主に或る目的を抱いて𢌞国するものや、又は国事に奔走する人達を宿泊させたりする用に充てたものださうであります。その母屋は稚龍窟の西側に在ったものでして、先生は文久二年四月一日の暁天を以て、その母屋の一室に於いて、初めてこの世の光を見られたものださうであります。

この村は豊前方面から豊後地方の温泉塚原、明礬または別府などに出かけるに当たって、是非とも通過しなければならぬ地点に当たって居り、又一面に於いては天下の奇勝を以て鳴る耶馬渓の羅漢寺方面に或る間道から容易に通ずることの出来る間道を以て居り、健脚の者であれば僅か一日旅にして豊後日田方面にも出ることが出来る処から九州地方の志士が幕府の捕吏や隠密などの眼を忍んで中国地方や又は京都にでも出て仕事をしやうといふ場合には豊後日田から耶馬渓にかかって山道づたひに此の村の方面に遣って来て稚龍窟で旅の疲れを休めた後、又山道にかかって豊前の長州港に出て船に乗って馬関に渡り当時勤王志士の参謀本部になってゐた白石正一郎氏の邸でホット一息ついた後それから思ひ思ひの方法に依って各自その目的地に向かったものだと云ふことであります。

 

少年時代の先生

稚竜窟の巽に当たって大きな池があり、池の東には古松老杉などの茂り合った森があって、その森の中には村社住吉神社ありまた池の北には一見いかにも清らかな土地があって、そこには蓮華寺といふ一宇の天台宗の寺院があり、先生七八歳の頃には九十九忍堂といふ武家上がりの老僧がこの寺の住職をしてゐたが彼は恐ろしく武芸に秀でた上に学問も出来れば書もよく書いた処からこの近郷の良家の子弟は、皆彼に就いて読み書きを学んだり、又は武芸なども修めたものだそうであった。運命の導くままに先生も七八歳の頃からこの坊さんに師事して、先づ四書の句読から教へらるる事になった。少年時代の先生は少年の頃には非常な学問嫌ひの腕白者で、親も師匠も全く困り果てたそうだ。併し先生の母親と云ふ方は小倉藩の相当な武士の娘でもあり気の勝った人でもあったので、どうかして先生を目の見える一人前の人間に仕立ててやりたいものと思ひ、忍堂和尚に特別の心付けをもして指南を頼んだところから一方も何とかして学問の口を開けてやりたいものだと思ひ、すかしつおどしつして読み書きの道を授けようと心を用ゐ、いろいろにして見ても、先生は一向に心を傾けず、朋輩をつかまへては相撲を取ったり喧嘩をしたりなどばかりして一向学事に心を用ひず忍堂和尚を手こずらしたが、和尚が九十回以上も大学の素読を教へても先生はその一句も覚えず、果ては和尚を敵のやうに嫌って、いくら呼んでも側に寄り付かなくなったので和尚終には愛想をつかして仕舞ひ、一日両親を呼び寄せて、「このお子様は到底吾のやうな徳の薄いものには、学問を仕込む訳には行きませぬから、どうか一つ手を換へて他の然るべき人を師匠にお撰び下さるやうに」と云って断って仕舞ったので、先生の運命は一転して自然と神様の方に向かって進まれる事になったのださうであります。

この辺に於いて先生と豊前長洲溝口家との関係を一通り記しておく事にしよう。

豊前の長洲港に溝口といふ一見の旧家があった。この家は寿永の昔壇の浦で滅びたと伝へらるる平家の優秀な一公達の子孫だと伝へらる名門であったが、或る人の代に家を譲るべき子のなかった為に宇佐神宮に奉仕してゐる人の二男を養子に貰ひ、その人の妻として貰ひ受けたのが先生の父仁左衛門翁の実妹トキ女であった。或人の書いた先生の伝記を見ると、この自分の事情を聴き誤ったものか、先生が溝口家に養子にでも行ったかのやうに記されてゐるが、それは大変な間違ひである。前に記したやうに先生は学問嫌いの処から忍堂和尚に破門された結果親達は日夜我が子の為に良師を探してゐた時に当たって、或時の正月伯母トキ女が生家川面家に年始に来た時先生の一條を聞いてこれも大いに驚いたが、一方長洲の方にては、その夫溝口千秋氏の尽力に依って豊前国築上郡薬師寺恒藤遠帆樓先生を迎えて一私塾を開き、土地の子弟を教養する運びになってゐたのでトキ女は兄夫婦の人に向かひ、「それではこれから暫くの間甥を私の家で預かって行きまして、宅から日々学校に遣って勉強させることにしてはどうでせうか」と相談して見ると、川面家にても大きに喜び、早速その議に従ふことになったので、先生は八歳の正月から伯母さんにつれられて、長洲の溝口家に行き、そこに宿泊して従兄潤太氏につれられて、遠帆樓先生の塾に通学することになったが、後になって考へて見ると、これは全く神様の先生に対せらるる厚い厚い有難い思し召しであったといふことが明らかに分かるのであった。

先生の貴い生涯には重大な関係を有してゐらるる人のやうに考へられるから当時の溝口家の主人の人格等に就いて、今少しくここに記して置くことにしよう。千秋翁は宇佐の一神職の二男に生まれた人で、広く和漢の学に通じた上に、古神道の学者として二豊地方に於いて最も有名な人であった。彼は実に熱誠な勤王家で、その性至って厳格な人であったが、客と対談中、談偶々国事に及ぶと、悲嘆慷慨して腕を扼して泣くやうな事すらもあったので、中には彼を以て狂人となすやうな者もあったが彼は非常に義に深くして情に富み、志士の来って彼の家に宿り救ひを乞ふ者があれば、彼は赤貧常に洗ふが如き中にも何とか金を工夫して他人の難を救って遣ったことは五回十回に止まらず、どうしても自分の力で金策の出来ぬ場合には、そこから三里南西の方にある小坂に使いを走らせ、情を明かして先生の父仁左衛門氏から金を借り受けて用を弁じたものださうである。勤王の志士として有名なる真木和泉守を始め長三洲の如きは、既に捕吏の手に捕らはれんとした処を、千秋氏夫婦の尽力に依って救はれ、溝口家の裏から月明の夜、木の葉の如き一扁舟に乗って、三人の漁夫に漕がせながら、周防灘を西北に向かひ、馬関に渡って白石邸に辛くも逃げ延び、絵をかきながら中国地を忍んで京都に上り、運良くも王政復古の慶びに接し得た者ださうである。その為今日にても目下在京の溝口家には同志の手に成った当年の書画や手紙などが数多保存されてゐるさうである。溝口家に就いてのかうした事実を一々記していけば猶ほいくらもあるのであるが、それ等の事は後日に譲るとして、私は先づここに先生の御一身上に浅くない関係を有する話ばかりを、今後しばらくの間号を追ひ巻を重ねて記して行って、終には先生のお伝記を完ふする予定にしてゐるのであります。次号におきましては先生が千秋翁から古事記の講義を聴かれて、始めてこの人に神道思想を腹の底まで吹き込まれたお話をするつもりであります。

(稜威会機関誌『大日本世界教』昭和六年一月号より)

 

(*1) 「飯峰」は東秀生先生が号として使っておられたお名前です。その他、鬼谷道人なども使われていました。