川面先生御生家のお屋敷跡の写真に就いて、私が先生より聞き得たるところを記す

川面先生御生家のお屋敷跡の写真に就いて、私が先生より聞き得たるところを記す

 

東秀生

本三月号に於きましては先生と私との交渉のつづきを書きかけて居りました所、本号には図らず先生御生家のお屋敷跡のお写真を挿画として掲載することになりましたので、先生の御在世中私が先生から直接聞いて居りました事実を一通り茲に記して写真の説明に代へる事に致します。

先生の御生家川面家の建物などの事について出来るだけ精しく記すと云ふことは、それと同時に取りも直さず、先生の少年時代を物語ることにもなり、ツマリは先生の御詳伝の少年時代を物語ることにもなり、併せて又文久、慶応の頃に当たって、国事に奔走した九州諸藩の勤王の志士が如何に苦辛して幕府の捕吏や隠密などの目を避けて、京都に往復して事を計ったり、その藩々に往復して同志間の連絡を保ったものであったか、以てその一班を窺ひ知ることの出来る史料にもなりますので、私が這中の史的秘話に就きまして、予ねて先生から直接に伺っておりましたお話の覚書を材料に取り扱ひまして、自分自身に先づ少なからぬ興味を以て、御一年祭の諸般の多忙な中にも夜々閑を愉しんでこの一篇を草し、以て後日先生の御詳伝を編み輯むる時の準備に供することにいたしました。

回顧いたしますと、私が先生の御生家の事に就きまして、先生から最後にそのお話を伺ひましたのは、去る大正何年かの夏先生御西下あって、御帰京後の事でありましたが、その時のお話に「君は先年何十年振りかに郷里に帰った時はいかなる感想があったのか、生まれ故郷と云ふ所は、一木一草に至るまで、何となく懐かしい思ひのするものだね」吾も今年西下の時は、例年とは道程を変更して、神戸から瀬戸内海を経て別府湾まで汽船で行って、別府から六里の山路を踏んで、生まれ故郷に立ち寄って、我が生家の跡を訪ねて見たものだが、予ねて東京で君に話したことのある例の「稚竜窟」の一棟だけを残して他の建物は悉く取り毀されて桑畑となり、最早昔の面影もなく、あはれ昔を物語りがほに礎ばかりが残ってゐたが、その礎が何となく自分にはなつかしく思はれて、転た懐旧の想ひに堪へなかったので、つぎのやうな歌を旅日記の端に記して、その礎の上に石を重りにして載せて置いて来た。

たらちねが 住みにしあとを とふらへば

いしずゑばかり 今は残りて

それから稚竜窟の裏庭の辺に行って見ると、今や丁度秋草の花が今を盛りと色とりどりに咲きこぼれて居たのを見て、子供の時に自分がそこで村童を集めて、餓鬼大将になり、軍ごっこなどをして遊び戯れたころの事を思ひ出したので又、

うちむれて をさなあそびの むかしさへ

おもひいでけり 七草の花

同じ日に又、

まつ人の 駒のいななく音はせで

萩の上葉に 秋風ぞ吹く

今日になって回顧して見ますと、私が先生から、その御生家の事に就いてお話を承りましたのは、これがもう最後になるのでありましたが、あはれ神ならぬ身の。(未完)

 

(『大日本世界教』昭和五年三月号より)