川面先生と私との交渉(前号の続き)(昭和5年2月号より)
川面先生と私との交渉(前号の続き)
東 秀生
私の郷里肥後の熊本は昔から非常に游泳の盛んな所でありまして、藩主細川候は藩士一同に向って大いにこの術を奨励されたものでありました。
藩侯の游泳御師範役には猿木、小堀両家の当主が代々当たることになって居りましたので、そうした関係から我が肥後藩の游泳は猿木、小堀の二派に分かれて居り、藩士の或る者は小堀流を学び、或る者は又猿木流を学んで各自その技を競ふてゐたものだそうであります。私の祖父も父も共に小堀流を学んで、藩士中で勝れてその技に達して居りました所から、私が已に七八歳の頃にもなりますと父と祖父とが交代に夏の游泳季節になりますと白川若しくは江津湖などに伴れて行きまして、真裸にしては突然引っ抱えて「ソレ泳いで見ろ」と云ひざまに深い淵の中や若しくば激しい流れの中に真っ逆様にザンブと投り込んだものでした。グズグズしてゐると溺れますので、こちらも一生懸命に泳ぎますが、その中に細腕が疲れ切って、最早泳ぐ力竭きて危うく溺死しさうになりますと、その時祖父や父は始めて水の中に飛び込んで来て救って呉れたものでした。毎年夏になるとかうして小堀流の游泳術を二人で仕込んでゐて呉れましたので、私は十歳前後の頃にもなりますと、もう一通りは水の心得が出来まして、どんな激流の中でも五丁と十丁は抜手を切って容易に泳ぎ切ることが出来るやうになりました。
丁度その頃の事でしたが、或る年の秋の事に私が祖父に伴れられて白河の向ふ河岸に在る本庄の親戚の許に行って両三日泊まってゐる間は暴風雨が遣って来て一夜の間に白川に洪水が出て本庄方面から熊本に当たる白川の上流に架かっている安巳橋が流失して仕舞って返へられなくなった事がありました。
当時祖父は齢已に六十を過ぎた、老体の身でありましたが、その朝是非とも家に帰らなけりゃならぬ用事が出来自然に白川の水か減るまで滞在してゐられなかった為に、その洪水を泳ぎ切って帰ることに決心し、私を伴れて一度白川の岸まで出て見ましたが、その時またパラパラと前夜の嵐の名残りの大粒の雨が一しきり落ちて来ますと、祖父はそこ迄送って来てゐた親戚の者に頼んで一本の傘を持ってきて貰ひ先づ自分で裸になって、次には私をも真裸にし二人の着物や帯を一纏めにして自分の兵子帯でそれを縛って首に懸けた後、傘をサッと広げて、左手でさした後、「サア汝お前祖父さんの後に尾いて泳いで来い」と云ふが早いか私の手を引いて祖父は激しい流れの中に入り、サアここに来い、ここに来い、と云ひながら私をもその傘の下に入れて、流れを横切って泳ぎ始めましたので私も小さい腕に水を掻いて一生懸命に泳ぎ出し川幅の三分の一の当たりの処までは祖父の後に次いでどうにか泳いで行きましたがこの時の水は何しろ大分洪水でしたので子供の事とてだんだん力が竭きて来てもう泳げなくなりますと、祖父は私にその下帯を攫ませて自分の力で私を楽に泳がせながら左の手には傘をさしたままで右の手だけで何の苦も無く対岸に達して先づ着物の袖から手拭を出して私の体を拭いて着物を着せた後、次には自分でも体を拭いて着物を着た後、平気で城西春日村の自宅に戻って来たことがありましたが、私は老後の思出の為に筆の序でにここに少しく祖父次郎熊の事に付いて記して置く事に致します。
我が祖父は武芸の達人であった為に小堀流の游泳術にはその技を究めていた人で壮年の頃には体重十八貫余と聞いて居りますが、彼はそんな重い体に重い甲冑を着けて一枚の板に鋲釘で短冊の上下を留めたのを持ち片手には筆を取ったまま白川の急流の中に飛び込んで泳いで渡りながら、その短冊に筆の跡鮮やかに歌を書いて君公の御感にあづかったと云ふことも聞いて居ります。
かうした事から祖父はその後藩士の中から抜擢されて藩主細川護久公の御弟御護美子の游泳の御師範役としてお仕へ申して居りましたが七十幾歳の長寿を保って何の苦しむ所もなく世を終わって逝きました、その古武士風の面影は今でも時折に私の夢の中にアリアリと現れることが稀ではないのであります。
これはつひ余談に渡りまして相済みませんでしたが私はかうした関係からして、まだホンの一児童の頃から水には深い親しみを有して居りました所から既にかうして一度川につかった以上はこれまでの習慣上少しでも泳いで見ぬことにはどうも我慢ができませんので、近いところに泳ぐに屈強な不知があったのを幸いにその中に飛び込んで少年の頃、祖父や父に教はって居りました立ち泳ぎ、浮身、御前泳ぎの三つの遊泳上の技を演じて川面先生に御覧に入れましたらその技に就いては先生ヒドクお褒めになりましたが、水から上がって体を拭いて着物を着た後、先生は私に懇々と、禊をする時潜海するには海なり又河なりに入って体に一度水を注げばそれ丈でよいもので、潜海中に泳ぐなどは以ての外の事で、修禊中に泳ぐのは大禁物だから、君が如何に游泳の技に熟達してゐるにしても、今後男女修禊者のもし道彦役などに当たった場合には修禊者には勿論の事、自分自身に於いても断じて泳いでは相成らぬ男女ともに減食してゐる場合において水中に於いて激しく四肢を運動させるやうな事があると救ひ難い病にかかるものだからして、修禊中に泳ぐ事は昔から厳禁せられてゐることを今後構へて忘れては相成らぬ」と厳重にお制しになりましたので、私はその後先生のこの御注意を厳重に守りまして、修禊中の潜海には海でも河でも自分自身に於いても断じて泳ぐことなく他の人の泳ぐのを見ても強ひてこれを制止するやうにして居りますが、これは全く紀州熊野の音無瀬川に於ける潜海法練習中に承った所の先生の御教訓からでありました。
或る時私は先生に「修禊中に決して泳いではならぬ」とお禁じなさる理由を伺って見ましたら血気盛んな少壮者に限って潜海中兎もすればこの禁を破らうとする者があるものだが、減食してゐる時に泳ぐといふと、甚だしく心臓を害するものであり本来心臓に故障を持ってゐるものであれば為に忽ち心臓が麻痺せんとも限らぬに依って、修禊中は断じて泳いではならぬことに古から厳禁されてゐるのである。動物でも猿や鹿はよくこの事を知って居るので、これから泳いで海なり若しくば川なりを渡らうとする前には必ず餌を漁って十分に腹を拵らへて体力を養ふた後に始めて海なり川なりに飛び込んで泳ぎ出すものださうだ。自分が先年岩手県の故大條医学博士にこの話をしたら同士は自分に向かって、この事に就いて興味ある話をしたことがある、金華山に棲んでゐる猿が海を渡って向かふの岸に移らうと云ふ場合には、鹿に騎って両手にシッカリと角を攫み、海を渡り始めるものであるが、その前には猿が山中で鹿の好むいろいろな食物を集めて来て鹿に御馳走をし先づ十分に体力を養はして力を附けた後、始めてその鹿に騎り海を渡り始めるものだと云ふ事を私は予ねて人伝に聞いて不思議に思ってゐましたが、今日先生から禊中は断じて泳いで劇しく四肢を働かせてはならぬと云ふご説明を承りまして、これまで不思議に思ってゐた金華山の猿が鹿に騎って海を渡る話を思ひ合わせ、潜に我知らず横手を打った次第でしたが、かうした事になりますと人間よりも却って動物の方が遥に立ち勝れた知能や経験を有してゐる実例は外にもまだいろいろあるやうに思はれます云々」と云はれたと云ふお話を先生に親しく伺った事がありました。(完)
(『大日本世界教』昭和5年2月号より)