川面先生と私との交渉(前号の続き)(昭和五年一月号より)

川面先生と私との交渉(前号の続き)

東 秀生

 

新聞社からの帰途を反対党の壮士に邀撃せられてからは二三日も経った後の事であったと覚えて居りますが、或る朝宿の便所の中で忽ち悲鳴の声起り頻りに私の名を呼ぶ者がありますので、不審に思ひながら取り敢へず急いで便所に行って見ますとその声の主は疑いもなく先生でした。私は戸の外から声を掛けて『先生ドウなさいました』紙でもお入り用なんですかと御用の趣きを伺って見ますと先生中から『イヤ吾は飛んだことをやった今用事を足して立たうとした機(はずみ)に、大切な懐剣をツヒ糞壺の中に落として了った。君気の毒だが何とかして早く取り出してよく洗って塩を振り掛けて清めて持って呉れまいか』と云ふお頼みでした。

このお頼みには私も少々閉口しましたが外ならぬ先生の仰せですからイヤとも云はれず早速下に下りて便城(じょう)の搦手(からめて)の掃除口に廻りその辺に在った棒を取って掃除口の戸を外づし、袖に固く鼻を掩ふて城内の動静(ようす)を窺って見ますと川面家祖先伝来の名剣菊一文字短刀は無惨白鞘のまま壺中の黄金山の頂上に真逆様に取り落とされて逆に突立って居りました。

私は実に苦辛と克己を以て二本の棒で黄金に塗れた名刀を二本の棒で搦手の外に挟み出した、近所の細い流れに運んで行って一旦黄金を洗い去った後、更にこれを井戸端に運び幾度も幾度も水を改めて清らかに清潔に洗い清めた後、先生のお望み通り塩を振り掛けて清めた後、先づは事なく先生の手にお渡しますと『ドウも御苦労でした』実に飛んだ失態を演じて君に迷惑をかけました、ひどくお礼を仰ったのには、私の方で却って恐縮した事がありました。

先生が熊野実業新聞社に御在勤中の或る年の二月の事に土地の警察署長の小林某氏が官幣大社熊野神社の境内で消防の出初式を行った時、皇族下乗の建札あるにも係わらず署長が乗馬のままで境内に入って行ったことを聞かれて、『それはどうも怪しからん』と云って先生は大いに怒られ翌日発行の新聞社説欄に『咄何物の無礼漢ぞ』と題して一旦は彼の非行に痛撃を加えられたが、更に筆を緩くして、その社説の末に『人誰か過ちなからん、一たび過っても悔ひて潔くその非を改れば敢て追及する限りでない。彼れ直ちに参拝して幣帛を厚うして御神前にお詫びを申し上げた後、社務所に廻って神職に対しても厚く謝罪すればそれでよし、左もない限りは断じてそのままには差し置かれぬ』と懇ろに注意して諭されると、所長は直ちに先生の御忠告を容れて万事お指図通りにしたので事は無地に落着して為に免官されるやうな事もなかったので、その後彼れ自ら先生の許を訪問して大に恐縮して謝罪し、且感謝した事がありました。

紀州熊野は所謂三熊野(本宮、新宮、那智)三山の所在地で昔から我国の霊地として世に聞こへた所であるが先づ見る山には有名な那智山あり、水には那智瀑布あり、海には怒濤澎湃天を撃って、荒れ狂ふ、その雄大さ云はんかたなき熊野灘あって一望万里の熊野灘に忽ち見る幾頭の山の如き、鯨魚の高く潮を吹いて縦横に往き交ふ光景の雄大さは人をしておのづから崇高の気を発せしめずに置かぬ。

その滞在期間は仮令半年の短日月の間であったにもしろ、我が川面先生がこの霊地に来られて日夕親しく三熊野の散水に親しまれたばかりでなく、或る時は新宮に参拝して伊弉册大神の御前に稽首して深き思ひに沈み、或る時はまた本宮に参拝して天照大神の御前に拝伏して、人知れず黙考に沈み、また那智山に詣でては瀧宮大己貴大神國常立大神の御前に伏して将来立教上の思索に断腸し、朝には四囲の深山を仰いで神気を養ひ、夕には南に近く熊野灘を望んで窃に膽を練られたいふ事は後日の川面先生をみづから養成する上において、蓋し多大なる効果のあった事であらうと思はれるのであります。

猶個中の神秘に就きまして、私をして思ふがままに記すことをお許し下さいませうならば、神様は、将来に於いて、その事業を大成させ給はんが為に、この時先生をこの霊地にお導きになって先生の思想の上に不言不語の間に於いて何物をか自然とお授けになったのではありますまいか。

申し換へて見ますれば、先生はこの時一個の新聞記者としてこの天下の一大勝地紀州熊野に来られる事になったのは、是れ決して偶然の出来事ではなくて、これは全く神様の先生に対でらるる深い思し召しであったに相違あるまいと私には窃に思はれる節が実に全く少なくないのであります。

先生は私が明治二十五年の五月を以て東京本郷真砂町のお宅で初めて御目にかかった時からしまして熱心に御拝神なされ、何事につけても深く感謝されるお方でしたがこの熊野時代になりますと、先生は更に一層その度を加へて熱心に拝神なさるやうにお見受けいたされました。

この時代になりますと、朝夕二回の御拝神は申すに及ばず、毎日新聞社に御出勤なさって筆を執って原稿紙に臨まれ、これから社説をおかきなさらうと云ふ時には、筆を下される前に先づ必ず一度拝神されて筆を頂かれた後に執筆せられ主筆として社説を始めその日各べきほどのものを無事に書き終られて編輯局を去られる時にも又必ず拝神して筆を納められた後退出せられるのが例でした。

私が一夜先生が毎日さうして人知れず瞑目して窃に拝神なさる御理由を伺って見ますると、『吾が新聞社に出てこれから物を書かうと云ふ前にお拝りをして筆をいただいた後に仕事を始めるのは、吾がその日若し病気であるか、他に余儀ない支障りでもあれば安心して自己の職務に従事することは出来ぬのであるが、身体も幸に健康でありほかに障碍もなくして安心して筆を取って自己の職務に従事させていただく事はこれ全く神様の有難い御恩寵であるので、私は先づ深くそれを感謝し奉った後で始めて毎日自分の仕事にかかるのである。夫にその日の仕事を終わった後に拝神して筆を納めるのは、『今日も亦私をして無事に一日の業務を終らせ給ふた事を深く感謝し奉るのである。これは独り吾ばかりでなく真個神様の御恩寵を感謝する心のあるものは、君と云へども今後は必ず然かすべきである云々』と懇切にご教訓下さいました。

感化の力といふは、実に恐ろしいものでして、私はその時、先生のこの御教訓を身に沁みて、アゝこれは誠にそうだ、神の子として人間はみな誰しもさうこそあらねばならぬものだと痛切に感じました後は私もそれから先生に学んでその日の仕事を始めるときと、無事になし終わった時とには必ず心の中で拝神して神様の御恩寵を深く感謝し奉るやうになりましたが、その習慣は今日でも猶毎日私の身に遺って私の身を支配して居るのであります。

この時代の先生に就いて、深く私の記憶に存して忘れ得ぬことの一事があります。それは日曜毎には必ず私を同行されて、新宮則ち熊野速玉神社に参拝せられ、祝詞を奏げて一身に拝神せられた後には神の御前に端しく坐って、宛も画いた人のやうに粛然と鎮まり返って魂を鎮め深く瞑想に耽られるのが例でありましたが、長い時にはその瞑想が一時間余にも及ぶことが珍しくなかった。

この瞑想の間に於いて先生が精神的に何事をか想ひ得られた時には、それがいつでも私によく分ったのでした。何事かを想ひ得られた時には、満面に煕々として喜びに光り輝き、更にまた一度改めて慕しく拝神して心から、感謝の意を表せられた後それは非常な御機嫌で全身の融けるやうに喜ばれ、『東君どうも長い間お待たせしてすみませんでした。アゝ人の一念といふものは恐いものだ、人一人が一年の力を懲らして、一事を熱心に思ひ極めて居れば天地神明のお陰によって晩かれ早かれいつか一度は自然と解決して疑問を氷解するものだ。アゝ有り難い、アゝ辱ない、全く神様のお導きだ』と云って頻りに喜ばれた後ではいつでも同じやうに『アゝ東君吾は全く幸福な人間だよ、君が知っての通り、吾はいつも貧乏で財福は授かっておらんが、その代りに多くの思想をお授けにあづかってこの世に出て来てゐるので、百千万の財豊を有って居る人達よりも却ってこちらの方が永遠の生命を有してゐる大事業を為せて頂くことが出来るから結構だ。実に愉快だこれも全く神明の御恩寵に外ならぬと言はれて深く感謝されるのが例でありましたが、かうした時には疑ひもなく先生が、その畢世の御事業として居られた祖神の垂示の御研究に就いて何事かを思ひ得られた時であった事は私の直霊にも能く知ることが出来るのでありました。

この時代の先生に就きまして、私が日常実験した処を有りのままに記して見ますれば朝、昼、晩の三回づつどんなことがあっても必ず配信なさる外、喜びごとがあればその喜びごとに付け、また困難に遭遇すればその困難に付け悲哀に出会すればその悲哀に付けても亦必ず拝神せられた後で裏息吹を行られるのが規則のやうになっておいででした。

その頃私は先生と同じ下宿に宿泊して居り、私は先生のお部屋のスグ隣の部屋で起臥して、日夜親しくお仕え申して居りましたが、先生は日夜の別なく、身に暇さへあれば古今東西の哲学者や諸種の神典を研究せられどうにかすると、宿におゐでなさる時でも、一心に何かの原稿を書いておゐででしたが、当時の先生に就いて今日でも私が身に沁みて記憶して居りますことは先生は夜間一度枕に就いてお休みになりましても、夜の二時則ち家の棟がヅンと三寸下がるという丑満時になりますと必ず目を醒されて寝床の上に起き上がり、八平手の音高く拝神せられて、ふたたび枕に就かれた後はそれから後は最早眠られる事なく夜の明けるまでは床の上にヂッと仰向けに寝てゐられて静に思索に耽られるのが常でしたが、先生のこの御時代は一面に於いては、新聞記者の生活でしたが他の一面においては全く先生将来の大目的に対せらるるご準備の時代であったと申し上げても宜しからうと私には信ぜらるるのであります。

私も自然先生の御感化を受けまして居住常に御恩寵を感謝して拝神するやうになりこちらから進んで熱心に神様のお話を熱心に拝聴するやうになりますと、その年則ち明治三十四年の三月一日の朝から私を毎朝早く音無瀬川(*1)に伴れてお出でになりまして、『貴公は将来吾の事業を補助して貰らはにゃならぬ人だから』と仰ってご一緒に潜海の修行をさせて下さる事になりました。

で、私が先生から親しくこの行事の修行をさせていただくことになりましたのは全くこの時代の事でして私が始めてこの行事を実修しましたのは、全く紀州新宮熊野の音無瀬川の清い流れに於いてでありました。(以下次号)

(『大日本世界教』昭和5年1月号より)

 

 

 

(*1) 音無瀬川  現在の熊野川。当時は音無川、新宮川などと呼んでいたらしい。