私と川面先生との交渉(9月号の続き) (昭和4年12月号より)
私と川面先生との交渉(9月号の続き)
東京 東 秀生
- 熊野実業新聞社時代の川面先生と私
私は本号におきましては、那智瀑布の修禊談の大略をお話いたすつもりで居りましたが、伝へ聞く所によりますと、近頃世間で川面先生の御生涯を伝して、この教界の偉人の風格経歴等を永く後世に伝へやうと企画する伝記者が諸方に現はれて来るやうですから、私はそれ等の人達に正確な資料を提供して便利を与へ、成るべく事実と余りにかけ離れた誤りを世に伝へて貰ひたくない為に熊野実業新聞時代以降の先生の御事蹟に就きまして、私が直接関係して実験した丈の事実を一通り今号より号を追ひ回を重ねて皆様方にお話をすることに致します。
既に一度前に記しておきました通り、時しも明治三十四年則ち今日から大約二十七八年前の二月下旬を以て、到る処に梅の花が雪かとも見紛ふばかりに真白く咲き溢れて清香馥郁たる紀州新宮町の川面先生の僑居に着いて、まだ我が郷里肥後熊本の土の匂ほひのしてゐる下駄を脱いだ私は、その翌朝早速先生に伴はれて、初めて熊野実業新聞社に出勤し、社長津田長四郎氏始め社員一同に入社の挨拶を済した上で、その日から早速編輯局の一脚の椅子の主人となって筆を執り、雑報を書いたり、漢詩の添削をしたり、また記事の少ないために紙面に余白を生じた時は、随想録や古英雄の逸話などを書いて紙面を賑にすることを以て我が任務として、予ての望み通り昼夜とも常に先生のお側に侍して、何となく喜ばしい気持ちで過ごすことが出来るやうになりましたが、これも全く神様の有り難い御恩寵に外ならぬのでありました。
この時代の先生の日常の御生活に就きまして、今日から回顧して見ますと、それは随分普通の人とは異なった所がおありでした。
この時代の先生に付きまして、先づ私が愕きましたことは、私がこの時紀州新宮に先生の後をお慕ひ申してはるばる熊本三界から遣って来て、先生の僑のお住居に同居して、御一緒に暮すやうになりますと、先生は晴雨に関せず、毎朝必ず日出前に何処かへコッソリとお出かけになって、早い時で一時間位どうかすると二時間以上も経った頃にお帰りになって朝御飯を召し食った後に、私を伴れて新聞社にお出かけになったものでした。
この時一週間ばかりも先生と御一緒に暮らしてゐる間に始めてこの事に気の附きました私は、一日先生に「先生あなたは毎朝早く起きて必ず一度何処かへお出かけになるやうですが、アレは何処へお出でなさるのですか」と伺って見ましたら、先生は唯お笑ひになって、「吾は少年時代からの習性で毎朝早く起きて一度川の流れを見て来ぬことにはドウも朝飯がうまくないので毎朝一度づつ川端に行って暫くソコらを散歩して来るのだ」と云ふことでした。
併しどうも私には不思議に思はれてなりませんでしたので、或る日曜日の朝のこと私も一朝早く起きて宿を立ち出でて先生の後から見え隠れにソット尾けて行って見ますと、その時ばかりは先生の奇行に私は全く吃驚して少なからず先生の御健康を気遣わぬ訳には行きませんでした。
紀州は如何に南に面した暖国とは云ひながら、時しも二月半ば過ぎのことでして、まだ梅の花の蕾が幾分は咲き残ってゐる頃の事ですから、特に川縁などは朝風の寒さが肌に沁みる時候であるにも係わらず、私が後からソット尾けて行って見ますと、先生は暁天の寒い風の中を潜って素足のままで、スタスタと新宮町の東を繞って流れてゐる例の有名な音勿瀬川(*1)の川縁にお出でになり、そこに足を止めなさったかと見ると、手早く帯を解いて真裸体になり、音勿瀬川の清い流れの淵にザンブリと水烟を立てて飛び込まれ、先づ顔を洗ひ口を漱ぎ全身を洗ひ清められた後、河原に上ってタオルで全身の湿気を拭きとられた後、別に風呂敷に包んで持って来られてゐた晒木綿の白衣を着て、同じく白木綿の帯を締め、次には同じく白木綿の切れでキット後鉢巻を締められた後、東の天に面って拍手をたたいて謹厳な態度で一心に何物かを拝まれた後、河原の石に踞して音吐朗々と大祓の詞を誦まれた後、彼れ此れ二時間近くも両手を結んで上下に振って居られたが、それが済むと、直然と起ち上がって右の手を高く振り上げられたかと見ると、忽ち一声「ヱイ」と高く発声せられたその声には、私は全く不意を喰らって胆を破られ思はず飛び上がる程駭きましたが、今日になって思って見ますと先生は早やこの時分から既に毎朝禊の実修を音勿瀬川の河原で実行しておゐでになったのでした。
私が此にかうした事蹟を記して置きますと、世の伝記作者は誤って、或は川面先生がこの時分から禊の実修をお始めなさったもののやうに伝へるやうな惧れがないとも限りませんので、私は念の為ここに川面先生と同窓の人で今日熊本で九州日々新聞社の社長をして居られる山田珠一氏が先生がまだ一少年の頃からして既に毎朝身に水を灌いでゐられたこと則ち毎朝禊をしてゐられた事実に就いて「川面先生追慕録」中に記載された大要を左に抄録して、これ以前に於いても先生は既に毎朝禊をしてゐられたと云ふことを證明致して置きます。先生の少年時代からの親友の一人であった山田九州日々新聞社長はこの事に就いて記して曰く、「川面君に関して私の記憶に存して忘れられぬ一事がある。君が少年時代に於いて私と一緒に豊後草地の涵養学舎で学んでゐられた頃、寒冬、暁天に早起きして学舎の附近にある広瀬川に至り、裸体となって水中に飛び込み、沐浴するを常としてゐたので、同窓の徒は之を見て君の奇行を異しみ、又非笑する者もあったが、後年君が稜威会を起し禊の行事を行って多くの衆生を指導し、神道を宣明するを以て己の任となし、斃れて後已んだのは、或はこの少年の時において、君が寒天早暁川水に沐浴してゐた事と何らかの連携がありはしなかったかと思はれるが、私は君が在世中いつか一度この事を君に聞かうと思ひながら終にその機会を逸して了ったのは実に遺憾な次第である云々」と。
私は今回再び稿を起して、本篇を草するに先立ち、先生の為には実弟であり、私に取っては同窓の間柄である新泉堀内氏を一度態々上野秘宮に訪うて「先生が禊の実修をお始めなさったのはお幾つ位の時からでしたらうか、君はそれを知っておゐでですか」と質して見ましたら、氏は一冊の備忘録を取出して私に示された後「これは私が今後世性の全部を挙げて君に助筆を乞ふて兄の正伝を作る時の準備に備へて在る、兄の経歴に関するいろいろな記録の中から要点要点を抜萃しておいたものですが、兄が郷里豊前の馬城山(又の名は舞鶴山及び御許山)中に住んで居た神仙徳田真澄翁から禊の直伝を受けて、豊前宇佐神宮の所在地から約一里北方に在る「長洲」と云ふ港の寒潮の中で翁と一緒に始めて禊をしだしたのは兄が十三歳の大寒中であったことは兄から直接に私も聞いたことがあれば、また禊に関する兄の手記中にも明確に記録されて遺って居る。云々」と云ふことでした。
先生と修禊とに関する事跡は後廻しにして述べることに致しまして、ここには先づ熊野実業新聞時代の先生の御生活に就きまして専ら記すことに致します。
新宮町を中心として、その付近一円の地は政友憲政の二派に分れて実に政争の激しい所でありました。
その頃新宮に新聞が二つ発行されてありましたがその一は熊野実業新聞で政友派の機関、他の一は熊野新報で、これは反対派即ち憲政派の機関でありました。右両新聞は毎日社説で火花を散らして正論を戦はせたものでしたが、何を言っても熊野実業の主筆をして居られる川面先生の方は和漢洋の学に精通して居られる上に法律や政治経済宗教などの智識にも富んで居られ加ふるに文章の達者なことと来ては、こんな田舎新聞の記者には人に勿体ながられる程の健筆家でしたので、毎日社説で手きびしく反対派に痛撃を加へてグウの音も出させぬので、筆の上の戦では、とても敵はぬのを反対派の方では、口惜がって終には熊野育ちの命知らずの壮士一隊を差向けて新聞社を破壊し先生に暴力を加へて威圧して土地から追放はうとするやうになりました。新宮は全く非常に政争熱の熾んな所でして、選挙などのある場合には、他の土地では金銭を以て選挙権を争ふ代りに、この土地では、両派の面々各自白刃を懐に呑ませて競争場裡に出かけ、実は互に生命を賭して彼我の勝利を相争ふのでした。
こんな殺伐な気風の所ですので一朝政争の白熱化して来た場合には、いつ何時反対派の壮士が押しかけて来て新聞社を破壊し編輯局に闖入してきて、編輯員にドンナ暴行を加へるかも図られませんので、ここの新聞で編輯に従事することは、実に命がけの仕事だと云ってもいい位でした。
ですから先生も万一の場合の日にお備へなさるために外出なさる時にはいつでも必ず懐に川面家伝来の名剣と聞き及ぶ白鞘の短刀を大切に忍ばせておゐででした、私も万一の場合には先生にお代り申して彼等と戦う為に樫の木で作った二尺八寸の木剣を手に我が身辺から離さぬことにして置きました。
或る時先生が反対派の人倫上最も悪むべき行為に就いて社説欄で殆ど完膚なきまでに筆誅をお加へなさった事がありましたが、向ふではそれを遺恨に思ったものか一日の夕方先生が私をつれて宿のお帰りなさる所を壮士二三名に路で邀撃させたことがありました。
それとも知らず此方では先生が私を伴れて路の或る曲り角にかかった時、そこに待ち伏せして居った二三の壮漢が物蔭から現はれ出てその中の一人が両手を開いて行手を塞ぐ、それと同時に一人はイキナリ先生に鉄拳を揮るってかかりました。ところが当時はまだヤット四十といふ壮んな年頃であった先生は(已れ何んだ)と一喝なさると同時に腰間に挟んでおゐでなさった古代紫の房を附けた鉄如意を電光石火取る手も見せず「エイ」と一声高く雄叫ぶ声諸共にまた撃ち下ろして来る暴漢の肘の辺をヅンと一つお突きになさるとさすがの壮漢も先生の早速の気合に気を奪はれて面喰ひ、眼を廻はして、其処にドンと尻餅をついて倒れました。
それと同時にまた一人の壮漢が棍棒を揮るって撃ってかかって来ましたので今度私が護身の木剣を以て暫く亘り合った後、敵の虚を見て近く手許に付け入り腕の覚えの柔術でドウと大地に地響きのするほど力任せにたたき付けた後尚シタダカ思ひ知らせて呉れやうとしますと、先生が急に手を振ってお止めになり、「モウ余りヒドイことをせぬがイイ、此方さへ怪我をしなければ向ふに傷などを負せる必要は少しもない。サアモウよいから帰らう」とそのまま向ふにおいでなさるので、私は当時三十三歳の尚腕鳴のするのをヤッと辛抱して、先生を窃に護衛しながら宿に帰って来ましたが、それから後は先生と私とで何時何処を歩いてゐても暴行なぞ加へ得るものは、一人もないやうになりました。(以下次号)
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そのままに 神代のすがた伝へこし
大和言葉の 道ぞただしき (塙検校)
(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和四年十二月号より)
(*1)音勿瀬川 新宮市を流れる川は、熊野川であるが、この川は明治期から昭和初期には音無川と呼ばれていたらしい。その後、和歌山県側では新宮川、三重県側では音無川と呼ばれていた時期もあるが、現在は熊野川となったようだ。