私と川面先生との交渉(前号の続き)・(昭和4年9月号)

私と川面先生との交渉(前号の続き)

東京 東秀生

 

さてお話は最初の猶興学校時代の処に復して来ますが、その翌日から猶興学校に寄宿して私共の仲間入りをした今日の堀内新泉翁、当年の可憐異郷の一少年川面正太郎君は、何うした縁でしたか、中村先生の命に依って偶然私と同じ部屋の同じ窓の下に机を相対して勉強することになりましたが、我が中村先生はなかなか情愛の深い仁でしたので、その日窃に私を近くにお呼びになりまして、「今日から寄宿することになったあの子は親の処を遠く離れて旅に来てゐるのだから、何うか仲よくしてやるやうに、若し他の者が彼の子をいぢめるやうな時には君がそばで庇ふやうにしてやって貰ひたい」、といふことでありましたので、私は若しそんな場合には旅から来てゐる少年川面君に味方をしてやらねばならぬと子供心に思ってゐました。毎日机を向き合わせて勉強してゐる中に双方から懇意になって話し合って見ますと、年も同年であり、屈強な遊び友達であるので、日を重ねるにつれてだんだん懇意になってみますと「蛇は寸にして」の諺に洩れず、君はその時分から詩や文を作ることを非常に好み、私も亦この時分から詩を作ったり、文章を書いたりすることが非常に好きでした、一つはその趣味を同じくする所から一と月ばかりたった後には、非常に懇意になりまして、日曜毎に相携へて花岡山に登って、その紀行を書いたり又或時には熊本名所の成趣園に行って、そこの風景を詩に作ったり文章に書いたりして相楽しんで居りましたが、将来に於いて我が文壇に一家を成して飛舞活動する任務を天に稟けて、世に出てゐる人だけあって、この時分からして詩を作ってもチョットした景色などを序しても普通の少年よりは優ったところがありましたので、中村先生も君の文才をひどく御賞讃なさって「川面は今に詩か文章を以て世に立つやうな人になるだらう」と常にいっておゐででしたが、先生の人を見る眼は果たして誤りませんでした。

私は稜威会とは離れられん深い因縁の糸で縛り付けられてゐるものだと見えまして、この猶興学校時代からして、私と稜威会の間にはいろいろな関係で両者の間に幾筋も幾筋も截るに截られぬ深い因縁の糸が結び付けられて行くのでした。

少川面君の入学に遅れること二ヶ月許の後になって、又一人の新入学生があって、私達の仲間入りをしましたが、それは私と同じく旧肥後藩士の子弟で、姓は永沼、名は幸夫といふ玉のやうな涼しい眼をして、鼻筋が隆く通り、口元キット引締り、唇紅くして色白く、一見気品高くして、いかにも貴公子らしい容貌をして美少年でありましたが、少永沼君の関は私川面君との側面に定められ、三人三脚の机を提示型に並べて勉強することになったところから、互いに仲よく相親しんで行くやうになりましたが、この少年新入学者が又一頭地を抜いた秀才でしたので、同室内に寄宿してゐた他の朋輩供が此の方三人の仲よく勉強するのを見て、自然と妬むやうになって我等に対して何か事を起こさうとする場合には、子供の時から力自慢の私が腕に覚えの柔道で二人の学友を暗護するやうに努めて居りました。

お話は変わりますが、右永沼少年の生まれた家といへば、旧藩中でも有名な名門でして、祖先某といふ人は藩主細川忠利公に仕へ、例の剣聖宮本武蔵と相前後して禄数百石を以て宝蔵院流の槍術師範役にお客分としてお召抱へにあづかった人だといふことですが、当時幸夫少年の厳父に当たる人は名を永沼東夫といはれて、明治維新の際には丸山作楽などといふ名士と共に国事に奔走せられ、維新後は高知並に浜松などの裁判所長を勤めてゐられた仁ですが、幸夫君が猶興学校に来られた時分には家厳は既に故人になってゐられました。

猶興学校に於ける私等三人は実に親しくしたものでしたが、この幸夫少年の実のお姉さんに当たられる夫人が、それから幾年かの後に及んで、我等二人の身にとって縁故の浅くない当稜威会会長法学博士馬場愿治先生の夫人におなりなさらうなどとは、当時固より夢にも知ることの出来やうはずはありませんでした。

併しながら私共三人が打揃って猶興学校に在学した事は、その後余り長い間のことではありませんでした。川面君は高等学校に入学するのが志望でしたので、普通学を修める為に先づ去って済々黌中学に転校することとなり、私は陸軍士官学校に入学するのが志望でしたので、その予備校として設立されて居た育雄黌に転学し、永沼君も我等と前後して退学されましたので、それきり各自分かれ分かれになって勉学することになった為に、一同も顔を合わせる機会がなくて過ぎることになってしまいました。

人間の運命はいろいろになって行くものでして、軍人として身を立てるつもりで居りました私は、事情の為に余儀なくされて目的を変更し、東京に出て法律を学ぶことになりました。

さうした目的を抱いて上京した私は、今日の中央大学がまだ東京法律学院といふ名称で神田錦町三丁目にあったころ、そこに入学して法学通論から学ぶことになりましたが、その後二三年間同校に在学して法律を学んで居ります中に大勢の講師の中でいつも引きつけられるやうな何となく懐かしい気持ちで、その先生の講義を聞き、一言も聞き落とさぬやうに熱心に筆記して、この先生の時間には唯一度も休んだことのなかった程、私の景仰してゐた、その容貌、挙止、言語等に至るまで一見温乎として魂のやうな青年法学士の一講師がありました。

私は当時この講師から民法財産篇の講義を聴いて居りましたが、学生仲間の噂に聞きますと、この先生は帝大法科出身の有名な大秀才で、数多き新進法官中でも錚々の名声ある麒麟児で当時横浜地方裁判所長の椅子に就いてゐられたが、最早程なく大審院に栄転せられべき人であるといふことでしたが、神様が我々人間には何程の智慧や能力をもお与へ下さらないものでして、当時私はこの人に就いて学生中の何人よりも熱心に民法財産篇の講義を拝聴して居りながらも、この先生が、やがて広島控訴院長の職を経て、大審院に栄転せられ、その後頻りに地位を進められて遂には大審院民事部長の顕職に就かれ、その後我が師川面先生の熱誠な結晶団体とも見るべき当稜威会の会長さんにおなりなさって、神様にお事へなさらうなどとは、実に全く思ひも寄らぬことでありました。

今自分で筆を執って、旧い記憶を喚び起しながら、この一篇を書いて居りますと、当時の馬場先生の御風格がありありと私の眼前に映じて参りますが、当時先生の御年歯は、まだやっと三十四五歳ばかりの青年好紳士でして、身長高く頭の髪は漆と黒く、両眼は水照りして玉のやうに涼しく、色は雪を欺き、唇は若い血を以て紅く燃えてゐる、実に容貌のお立派な好紳士でゐらっしゃる上に、先生は、その時分から一見誰も景仰の念を発せざるを得ない程の温和な御人格者で、何んな質問にでも決していやなお顔をなさらず、私共学生の充分会得するまで教えて下さいましたので、先生は当時同校の講堂の中に於いて大勢の学生から、いつも講義の終った後では、身辺を幾重にも取り捲かれて、宛も冬の日の光のやうに恋ひ慕はれておゐででありました。

予ねて川面先生がよくお話なさってゐられたやうに、神の摂理は、我等人間の何も知らずにゐる間に有りがたく幽玄不可思議に行はれるものでして、私が我が将来の何事をも知らずに浅墓な人間の考へを有って、さうして法律を学んでゐる間にも、神様は私を川面先生の身辺近くにお導き下さるのでした。

私が東京法学院に通学して居りましたのは、明治二十五六年ごろのことでありましたが、頃は何でも、初夏の候でして、見上ぐる五月の空は満天一碧真珠色に晴れ渡って、そよ吹く風にも初夏の薫りがして、若さに満ちた新緑の葉がさわさわと葉摺れの音を立てて、囁くやうに鳴って蘼き、雨でも降りそそぐやうに初夏の美しい日光が若葉の梢に心地よく照り輝く、ある日曜日の午前のことでしたが、当時私が住ってゐた上六番町(*1)の下宿を出て、今日の一日を散策に費して、学事に疲労した脳を休めて、更に新鋭の気を再造して又学事に当たるために、九段靖国神社の境内に散歩に出かけ、池の辺りのベンチに腰をおろして休息して居りますと、やがてそこに、白筋の二本入った一高(イヤその時分は、まだ第一高等中学)の制帽を冠った二人づれの学生がこれも同じく散歩にやってきて、私の近くに腰かけて休みましたが、暫く経った後何気なく二人の顔を見ますと、その中の一人は、旧同窓の川面正太郎君でした。互いに邂逅を喜んで久闊を序した後、一別以来のことを話し合ひ、その日直ぐに打ちつれて私の下宿に帰って昼飯を共にした後「君は今何処へ居りますか」と聞ひて見ますと、本郷真砂町のかうかうした処に一戸有ってゐるから、今度の日曜には是非遊びに来て貰ひたい、ゆっくりと猶興学校時代の懐旧談をやらうじゃないか」と君が恋々故人の情を以て誘ったので、私は次の日曜日を待ちかねてゐて、本郷真砂町に君の寓居を訪ねて見ると、君は先生並びに将来に於いて君の配たるべき跡見女学校に通学中の一少女と三人で一戸を有ち、一人の老婆に炊事をやらせてゐました。

その後私は此の旧友と互いに足繫く往復して、旧交を温めてゐる中に自然川面先生と知り合ひになりまして、非常にご愛顧を被るやうになり、何うした御縁であったか、私も亦先生を実の兄さんのやうにも慕って日曜毎には麹町下六番町の下宿から必ずお訪ねして居ります中に、私は一週にタッタ一度ぐらい先生にお逢ひして、いろいろめづらしい哲学上のお話を承る丈では満足することが出来なくなり、終には下六番町の下宿を引上げて、私も亦本郷真砂町の下宿に転宿して、朝夕親しく先生をお訪ねするやうになり、先生の方でも又銭湯や郊外散歩などにお出かけの時には、私の下宿に立寄って必ず私を同行なさり、東君東君と言って、殆ど兄の情を以て可愛がって下さいました。

此の時分の先生は勿論、まだ三十歳前の青春時代でしたが初めて熊本でお見かけ申した時と、同様黒い美しい頭髪を肩の辺まで長々と打被って南面した八畳の座敷の縁側に近い障子の下に机を据えられて、いつも何か厚い原書を読んでおゐででした。或る時私が先生に「これは何の本ですか」と聞いて見ましたら「これは英吉利のジョン・ロックといふ人の書いた哲学書だ」と言ってその人の学説の大要を、簡単に説明してくださいました。

その後私が先生にお逢ひする毎に、いろいろ哲学上のお話を伺って居ります内に、私も少しは哲学書を伺って見たくなりましてので、「先生の哲学を学ぶのに初学者に取って適当な本がありませうか」とお尋ねして見ましたら、先生は本箱の中から一冊のもう旧くなったスピノザの哲学書を出して、私に下さり、「初学者に取っては、此人のが一番解りやすく書かれてあるから、これを熟く読んで見るがいい」と教へてくださいました。私は此の本を読んでは先生の処に伺って、いろいろ質問してゐる中に法律の方よりは、こちらの学問の方に自然と頭が向くやうになりました。当時の先生は既に座敷の床の間の正面に神棚を高く懸けて天照大神をお祀りになって、朝夕熱心にお拝りをなさるばかりでなく、外出なさる時も亦お帰りなさった時にも必ず神棚に向ってお拝りをしておいででした。

当時先生の御信仰に就いて、まだ何も知らずにゐた私は、先生がたびたび拝神なさるのを見て、最初は「妙な事をする人だな」と心の中で怪しんで居りましたが、その後先生から我が日本の神様が他の民族の神様と異なって、ありがたいことを承った上に、或る時先生から「東君今後僕と長く親しく交際する積りなら、此の家に来た時は何うか先づここにお祀り申してある天照大神に向ひ奉って謹んで礼拝して貰ひたい」と荘重な言語でキット仰せられましたので、先生の此の御一言で、

私と当稜威会とは切っても切れぬ深い因縁の糸が両者の間に強く引かれることになりました。言ひ換へて見れば私がまだ若い川面先生の御指導によりまして、此の時から初めて拝神するやうになりまして、何事に付けても自然と心づよくなりまして人知れず感謝の念が油然として腹底から湧いてくるやうになりました。

然かしこの時私は長く先生に就いて我が古神道を学ぶことは出来ませんでした。

私が学業を終わるのを待ち受けて居りました、私の家では私を郷里に呼び返す事になりました。名残惜しくも私は我が師と敬ひ兄とも慕ふ先生にお別れして郷里熊本に帰り心ならずも哲学並に進学の研究を廃めて、公職に就くことになりましたが、先生がその後、先生の仏典の師で浄土宗の碩学であった黒田真洞師から懇望せられて、今日小川伝通院境内にある淑徳女学校の創立に従事せられることになり、それが終わると旧自由党報の編輯に従事せられることになり、やがて「長野新聞」の主筆としてその職に就かれた時、遥に私に書を寄せられて近況を知らせて下さった後に「何うだ身辺の事情が容るすやうならば、暫くこちらに来て記者生活を行って見んか、若し来るやうならば旅費その他は社から早速電報為替で送らせるやうに取り計らふから」と私にとっては飛び立つやうなお便りを下さったが、折から丁度母が病床にあって、私が違国に出かけることを許さなかった為に、私は先生の御厚意に背いて、御側に上がることが出来ませんでした。

私は母病気の為にこの好機会を逸した事を非常に嘆いて、先生に長い長い手紙を書いて送りますと、その時先生の御返事に「父母在す時は遠く遊ばず」といふ教へのあるのに、ましてや御病中のお母さんを振り捨てて家を出るなぞは、苟くも人の子たるものの断じて為すべきことではないので、そのまま郷土に止まって、御互い様に親といふ字は二字ない世の中なれば、どこまでも至誠を尽くして御大切に御看護申上げるがよろしい。川面凡児に君が再会する機会は、今後まだまだいくらもあるだろうが、親を再び有つといふことは到底不可能の事であるからして、どこどこまでも家に止まって親御に孝養を励むやうにおたのみする、君が私のそばに来て一所に神様の道を学びたいと思ふやうならば、心直く行ひを正しくして業に勤め、お母さんに孝養を励みながら先年東京で相別るるときに呉々もお話してゐたやう、日夜熱心に拝神する事を怠らずにゐれば、今後左程遠くない中に自然と君と私との間に人間の智や力を以ては到底予知することの出来ぬありがたい御摂理の中に両人相笑って手を取り合って事の意外に驚き喜ぶ時節が来るであらう。予てお勧めして置いたやうに「大祓」は毎日必ず一回づつ上げ給へ、毎日欠かさず此くの如くする人の上には必ず自然と喜ばしい新運命がやって来るものだといふことを、東君決して疑ひ給ふなよ」と書き添へてありました。

私は先生から、かうした御手紙をいただけばいただく程先生のお側が恋しくなって堪らなくなり、それに付けては万事先生の御教訓通りにして、日夕公職に尽くす傍らに先生の御言葉通り孝養を励んで居りますと、母の病気は何時となく全快しましたので「何うか少しも早く先生のお側に近づくことが出来まして御一所にその「禊」とやらをさせていただきますやうにと神様にお願ひ致しておりますと。

予ねて先生から伺って居ましたやうに「至誠神に通ず」といふことは全く事実でして、その後私がある官庁に奉職してゐたころ、一夜東風思ひがけなくも先生からの吉報を私の手許に吹き送って参りました。封を切るのももどかしく思ってサッと広ろげて読んで見ますと「自分は予ねて日本の名瀑布紀州三熊野の那智の瀑で禊をしたいと願ってゐた所、今度偶然紀州新宮の熊野実業新聞社から和歌山県選出代議士山口熊野氏を介して招聘されることになったから、近日一応東京に帰って老母を親しく見舞った上で同地に赴任するつもりの予定だ、君若し身辺の事情が許るすやうだったら紀州に出て来て同社に入社し、記者生活を行る傍らに、予て約束して置いた那智瀑布の修禊を遂行しやうではないか」といふ飛び立つやうな喜ばしい音信でした。

私は早速その手紙を先づ御神前にお供へ申して、私の切なるお願ひを叶へ給はったことの有りがたさ尊さをいくたびか感謝し、翌日早速辞表を提出し、一先づ熊本に帰り母にこの事を打ち明けて相談しますと、今回は快く承知して呉れましたので、早速喜びの征途に就き、紀州新宮を指して矢のやうに飛んで来ますと「オゝやって来たか」と私の手を執って先生も大層お喜びでしたが、私は幾年振りかで先生の温容を拝して嬉しさが胸一杯に充ち満ちて、両眼からは嬉し涙がハラハラ溢れ感極まって暫く口がきけませんでした。

先生の御尽力で翌日から早速入社して、筆を執ることになりましたが、それから幾か月ばかり立った後、愈々二人で那智瀑布修禊を実行することとなり、私が先生の腰に細引きを付けて引っ張ってゐる間に、先生が瀑壺にザンブリと躍り込まれ、文覚以上の荒行をなさった後、瀑壺の水を全く命がけで瓢箪に一杯汲み取り、東京に持って帰られて、その水の半分ではお茶を煮て御老母に差し上げ、残る半分の水は硯の水に用ひられて「全神教趣大日本世界教宣明書」や教典を書かれた後、愈東京市下谷区谷中初音町四丁目二十六番地に稜威会を創立せらるる運びになるのであります。

那智瀑布修禊中の勇敢壮烈なる先生の御行動に就いて茲に一通り私の実見した所を話して見たいのでありますが、意外に紙数が多くなりましたので、又次の機会を待ってお話することに致します。(昭和四年四月二日の夜、上野秘宮御神前に於いて、春雨粛々の音を聞きながら東秀生謹みて識す。)

 

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𠮟られたことも恋しき魂祭

 

(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和四年九月号より)

 

(*1) 上六番町 次の所には下宿の場所が「麹町下六番町」となっておりどちらが正しいか不明。