私と川面先生との交渉(川面先生追慕録掲載ノ続キ)

私と川面先生との交渉(川面先生追慕録掲載ノ続キ)

東京 東秀生

 先生はジット考へてゐられましたが、やがて徐(おもむろ)に「あんたは肥後の人ではないやうに思はれるがどこから来なさったか」とお尋ねなさると、青年は意気凛然とした顔を見せて「私たち兄弟は豊前宇佐のものです」と答へた。すると先生は大いに喜ばれ、宇佐八幡宮の歴史について、色々な質問をせられると、青年はその質問に一々ハッキリと返答をして先生に満足を与へた後、今度は青年の方から先生に問を発して「先生の学派は何学でゐらっしゃいますか」とお尋ねすると先生は青年の問に応じて「私は朱子学です」とお答へになった後、今度は先生の方から青年に向かって「あんたはこれまでどこでどういう人に就いて学問をしてゐなさったか」と試みにお問ひなさると、青年は又徐に言を起して「私の父や外戚の伯父などが皆そこで学んだ関係からして、最初は豊前薬師寺の恒藤遠帆樓先生の塾で学んで居りましたが、この五六年間は豊後草地の鴛海容谷先生の涵養舎で専ら皇漢学を学んで居りました」とお答へすると、先生は徐(しず)かに面をお上げになり「遠帆樓といふ名は疾(とう)に聞き及び、その詩も度々見て、恒藤家には代々名詩人の出ることを知って居りましたが「鴛海容谷」と云ふ学者の名は、今初めてあんたに聞きましたが、それは何うした人物ですか」とお尋ねになると私はその時右の青年が為した、いかにも敬虔な態度を今ぞハッキリ記憶して居りますが、彼は我が中村先生に「鴛海容谷とは如何なる人か」と我が師の名を問われたとき、思はず粛然として容を正し、先づ豊後の方に面ってお辞儀をして心から敬意を表した後に、始めて口を開いて「鴛海先生は篠崎小竹先生に就いて漢籍を修められた後、平田先生の門に転じて深く皇学を究められた大なる人格を具へられた一門の碩学でゐられますが、先生の在住せらるる草地村は旧肥前島原藩の領地でありました関係から、維新前領主有馬侯、鴛海先生の皇漢学に達してゐられること並びにその人格の高いことを聞き及ばれ、是非にとあって、極めて礼を厚うして以て侍読に招聘なされましたが、先生は家に高齢の父在し、郷土を去るを喜ばざるの故を以て君公の聘を辞し、一寒村の草地村に止まられて「涵養舎」と称する学校を興し、広く豊後豊前の年少書生を集めて業を授けてゐられます仁でゐられますが、先生は熱烈な敬神家でゐらっしゃいまして、朝夕二回づつ必ず音吐朗々と大祓をお上げになり、学生に向かって講義をお始めになる前には、熱心に拝神なさることを一度も怠りなさらぬ程のお仁でありますので、校風自づから揚って学生の士気大いに振るひ、先生の御感化に依ってこの学校の出身者は自然と皇室を崇め尊び神様を信ずるやうになりますので、立派に身を立て家を興すやうにもなる人達が少なくありません」と、その人に就いて右青年が精しくお答へすると、中村先生は大いに喜ばれ「それは誠に結構な事でありますな、今日年少子弟の師表とも仰がれる程の人達は、誰も皆その人のやうにこそありたいものです」とひどく賞賛なさった後、先生は猶同青年と古事記に関する話などを一時ばかりも長々としてゐられましたが、其の中に時刻が移って熊本城の旧本丸から午砲の音が響きますと、青年は先生にお暇を告げ、更に又懇ろに弟の上を頼んだ後、此の日は弟を連れて、その宿所へと帰って行きました。

先生は挙閑止雅(しとやか)に辞して去る青年の後を何となく名残惜しさうにお見送りなさった後で我ら一同の者に向かって「彼は実に前途多望な青年だ、もう学問も大分出来てゐるやうだが、第一人間の生命とも見るべき精神教育を彼は既に充分に受けてゐる人物だ、その証拠には私が先程その師の名を問ふた時に、彼は我が師の名を答ふるに当たり、先づ粛然として容儀を正し、師の在す方に向かって頭を下げて敬意を表した後に、始めて我が師の名を他に告げた彼の一事を見るも明らかに知るべきである。今日の青年には実に珍しい感心な若者だ、人は皆アゝこそありたいものだ。又アゝ無くては人間は決して大なる事業を建設することは出来ないものだ。人は唯学んだ丈ではいかぬ、学んだ結果が自然とアゝして形の上にあらはれて、他を深く感動させるやうになら無くては、その身の上に自然と天地神明の厚い御加護を受け得て、世の人に尊敬せられる程の精神的大事業を建設し得能ふものではない」と人を見るの名ある中村先生が言を極めて彼の謹厳荘重なる風格を賞賛なさって、彼ら兄弟が辞して帰り去るとき、私たち一同をして玄関まで送らせなさった。

私もその時彼等兄弟の者を玄関まで見送り、弟を従へて我先に学校の門を出ていく二人の後ろ影を暫く見送ってゐましたが、何ぞ知らん此の青年こそ、此の時から約四十年を経た後になって全神教趣大日本世界教の教祖となって、果然中村先生の予言通り天地神明の厚い御加護の下に我が宗教界に一生面を開いて世を利し人を済ふ我が師川面先生であり、またこの兄の後に尾いて悄々として門を出て銀杏の落ち葉の黄金色に降り積もって居る石段を今下りていく一少年を、将来阿兄指導の下に無量一百篇に垂んとする宗教小説や教育小説等を著作して阿兄と共に終始一貫して思想の善導に努力して、我が文壇に雄飛するやうになる新泉堀内氏であらうとは神ならぬ身の素より知らう筈はありませんでした。

この後約十年近い星霜を経た後、私が東京で同窓新泉君を介して先生に再会し、それから段々親しくなった後、先生が当時我が熊本に来られた前後の事情を尋ねて見ますと、先生はその時弟の為に良き師を得たことを深く喜んで安心し、一は西郷南洲翁の墓参をする為に、また第二には島津公を訪ふて、国事に就いて建言する所あるが為に、その翌日彼の翌日熊本を出発して徒歩八代に向かひ、殺気猶凛々たる西南の役の古戦場として有名な彼の人口に膾炙せる谷将軍の詩に「熊城元是好区寰。焦土粛條人未還。若教薩肥州尚在。不使賊度太郎山。」(*1)といふ肥薩国境の大難所たる赤松太郎、佐敷太郎、津奈本太郎の三太郎峠を踏破し、先づ鹿児島に行って城山の古戦場を弔ひ南洲王の墓に詣で予ねての望みを果たして後、帰途には日向に廻って高千穂、霧島などの絶頂を極め、その他檍原など、この国に存する丈の史跡を一々親しく尋ねた後、再び熊本にかへって、当時熊本県庁に奉職してゐられた従兄溝口氏と弟に逢った後、先生はその師たる神仙真澄老翁(*2)と共に郷里豊前の名瀑布東西両椎屋の雄瀧雌瀧において、今年の大寒中に大寒禊をする予ねての約束を果たす為に一応帰郷せられたと云ふことでした。

この自分の先生に就いてここに一つの挿話(エピソード)があります。この話は自分がかつて熊本の育雄黌に在学してゐた頃親交のあった熊野御堂武夫と云ふ、川面先生と同郷の出身に係る陸軍工兵少佐から聞き得た所であります。先生の作られた詩の中に「九月踏霜入薩州」の一篇は、当年先生が太郎山を越えるときの口吟であり、又今日西郷南洲翁の詩として世人の口に膾炙してゐる有名な彼の一篇の詩、則ち「孤軍奮闘破圍還。一百里程疊壁間。我剣已折我馬斃。秋風埋骨故郷山。」(*3)といふのはこの年に先生が翁の墓参をせられた時、この一篇の詩を賦して翁の墓前に供へ英雄の荒魂を慰められたのが、その後、翁の詩として段々世の中に伝はったものであるといふことであります。

川面先生の作られた詩は、私が残らず集めて居りますが、その数数百篇の中でも一番流暢に出来て居るのは、此の七絶篇と今一篇は、先生が先年越後講演の折に春日山に登って不識庵の幽魂を弔せられた「春日山懐古」の一篇らしく思はれます。今その詩をここに記して大方諸賢の御一覧に供します。

 

春日山懐古

叱咤風雲幾遠征。 中原掃蕩志難成。

越山空英雄。 過雁三更帯月鳴。

 

この詩を記して居って今想ひ出しましたが、先生の詩稿の中にもう一遍極めて風調に富んだのがあって、それは先生がまだ三十代のころに、或る年の春上野に花見に行かれた時、東照宮の廟畔で雪と降り来る落花を眺めながら賦せられたと云ふが、則ち左に記す一篇であります。

 

柳営ノ意気壓シ群雄ヲ。 六十余州指顧ノ中。

キノ春風無キノ。 将軍廟畔落花風。

 

以上三絶は先生の佳作として同人の間に知られて居りますが、先生も以上三篇は我が意を得てゐられたものだと見えまして、私は諸方で、先生が半折に以上三篇の仮名の一篇を揮毫されたのを見たことがあります。(未完)

 

(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和四年八月号より)

 

 

(*1)「若教薩肥州尚在。不使賊度太郎山。」とあるが、もしかしたら「若使薩肥州尚在。不教賊度太郎山。」かもしれない。

(*2) 神仙真澄老翁、神仙とあるが徳田真澄翁か。

(*3)「孤軍奮闘破圍還。。。」という漢詩は、一般には西道仙の作と言われている。