私と川面先生との交渉
私と川面先生との交渉
東京 東 秀生
私と先生との間には前の世からよくよく深い因縁の糸が引かれてあったものだと見えまして、今日までの両者間の交渉は一朝一夕の事ではありませんでした。私は今ここに其の交渉の概略を記しておいて、永く我が想出の種にしたいと思ひます。
一、私の記憶に存する青年時代の川面先生の風格 先生を中心として集まる大勢の男女の中には三十代か四十代の先生を知らるる人は少なくあるまい。けれども二十代の先生則ち今日から四十年前の先生の事を知ってゐられる人は或いは私の外にはないかも知れぬに依って、私は当時の旧い記憶を喚び起こして、その時分の未だに忘れられぬ先生の容貌などを大略記して、先生の貴い御生涯と其の事業とを偲んで、皆様方のご参考に供することに致します。
私が初めて先生の風格に接し得たのは十五歳の秋の事ですが、後で先生と話し合って見ますと、先生はそのとき二十二歳であったとのことでした。
お話は少し横途に外れますが、私が初めて先生を見た動機をお話ししますには、私の少年時代の事をここに少しくお話をしなければならぬことになって参ります。我が教界の巨人川面先生の青年時代は、既に大いに世間尋常一様の青年とは異なって異彩を放ってゐた人であったと云ふことをお知らせする前提として私の身の上に就きまして、余事ながら「もと私は中国の生まれ」(*1)と云ふ所からお話を始めます。
私が初めてこの世の光を見ましたのは肥後の熊本でして、我が家は有名な肥後米の産地、七十五万石を領してゐられた肥後公細川越中守の家中の一人として、我が父の代までに既に十数代に亘って世々其の禄をいただいてゐたのでした。
私が物心ついて来たころには世の中は已に明治時代に移り変わり、まだ不完全ながらも小学制度が既に実行されて居りましたので、私は学校に上がって小学の過程を今ヤット修め始めたばかりの九歳の正月になりますと、例の西南戦争が始まり薩軍の大将西郷隆盛が部下の健児何万といふ大兵を率ゐて、我が熊本城下を南西に距ること約三里の地点にある川尻にやって来てそこに本営を布き决河の勢ひで今にも押し寄せて来て、我が熊本城を包囲すると云ふ騒ぎになりましたので、市民は一同驚いて周章狼狽し、稚き者を背負い老人の手を引いて扶けながら我先にと戦乱を避けるために、城下を立ち退き思ひ思ひの方向を指して避難することになりました。
後で思ひ合わせて見ますと、それは丁度明治十年二月七日の事で、彼の有名な官軍の勇士伍長谷村計介が谷将軍の密旨を含んで熊本城の段山口から面に鍋墨を塗って、夕闇に紛れて城内を脱け出し、本妙寺山に逃げ込んで敵の眼を避けながら、実に非常な危険と困難とに克く耐へて密旨(ママ)の任務を完ふし、終に高瀬口の官軍と連絡を取って、これまで重圍に陥ってゐた熊本城を救う大活動を、人間至誠の一念で行りおほせたのと同じ日のことでしたが、私はこの日の朝、空は雪を催して阿蘇山颪の烈しく吹きすさぶ中を、モーいよいよ官賊両軍の間に戦争が始まるといふので、母に手を引かれて城下の我が家を立ち退き、途中でドーンドーンと遠雷のやうに響く大砲の音や、豆でもゐるやうにパラパラ聞こえる小銃の音を聞きながら、幾夜か馴れぬ冷たい旅路の夢を重ねて、北に向かって十五里余の(*2)山道を踏んで、県下芦北郡津名木といふ、もう殆ど薩摩境の寂しい方山里に辿り着いて、そこに一時仮の住居を定めて戦争の已むのを待つ間に、私はそこの田舎の小学校に入学して、小学の過程を修め、津奈木に留まること六年の後、家を挙げて再び生まれ故郷の熊本に帰って来て、城外春日村に居を定めると共に、私は春日小学校に上げられて、ここに始めて都会の完全な小学教育を受け得ることになり、小学を卒業した後は県立熊本中学に入学して、今度は中学の課程を修めることになりましたが、今日政友会の総務小橋一太君や、前熊本県知事赤星典太君なぞは皆当時の私のスクールメートでした。
幕末の歴史を読まれた方は、当時我が国に三大学校と称せられたものがあり、それは水戸藩の弘道館、岡山の閑谷館(*3)、次に我が肥後藩の時習館であったことを御存知でせうが、当時時習館の三大秀才と称せられた肥後藩士の一人にて、通称中村敬太郎、諱は直方篁齋と号する朱子学派の碩学であると共に、且つ又神道の大家であるばかりでなく、もっとも熱烈な敬神家として世に知られた一人の高士があったが、此の人は梅田雲浜、吉田松陰などと親しく交わり文久慶応の際には、上洛して大いに国事に奔走して居られたが、私が中学に居た頃は城西春日村に「猶興学校」と称する学校を興して、主もに旧肥後藩士族の子弟を集めて専ら皇漢学を授けて居られましたが、先生は皇漢学に達して居られる上に詩文を善くせられ、人の師表として真に相応しい高潔な人格を備えて居られた所から、皆其の徳を慕って四方から先生の門に集まるものが少なくありませんでした。
私は中学に在学することに年にして退学し、前期中村先生の猶興学校に転学して、これから主もに先生に就いて専ら皇漢学を修めることになったのでした。
これはどうした訳だったかと云ひますと、私の祖父はこれも熱烈な敬神家であると共に、国粋保存論の主張者であったがために、まだ一少年の私をして英語などばかりを学ばせて西洋流の人間に仕立てることを喜ばず、当時皇漢学の大家中村先生が猶興学校を我が春日村に創立されたのを好い機会として、私を中学からこちらに転校させて、専ら皇漢学を学ばせて純然たる日本思想の人間に教育しようと云ふ、私に対する祖父の考えが今回転校のもっとも大なる動機になったのでした。
前に記しましたやうに、祖父が熱心な敬神家であった関係から、私も子供の時から不思議とお神さまにお近づき申す機会が少なくなかったのですが、今度私が新しく入学することになりました猶興学校の校舎も、又実に不思議と神様に御縁故の浅くない家でした。今日でもはっきりと記憶に存して居りますが、同校舎は西南戦争の際、薩軍がそこに砲台を築いて砲門を据え、熊本城を瞰下して盛んに砲撃して官軍を悩ましたかの有名な花岡山の下にあり、校舎の後方には歴史に富んだ県社祇園神社(*4)があり、猶興学校の建物の持ち主は光永秀麿と云って、県社祇園の社司でありましたが、この光永家といふは実に非常な歴史的名門でして、この家の祖先は昔奈良朝時代に清原元輔朝臣が肥後守に任ぜられて任に就いた時に、都から伴をして降って来た人で、京都の白川大納言家とは至って親しい血族関係の或る間柄だと云ふことでした。十年の戦役に際し薩軍が熊本城を包囲して攻撃した時、南洲翁は桐野、篠原、村田、逸見などといふ幕僚を従へて川尻の本営から進んできて一ヶ月余りもこの光永家に宿泊して居り、南洲翁は時々幕僚と共に花岡山の砲台に出かけて城中の動静を瞰下して、部下の砲手等に指揮されたものださうですが、当時南洲翁が寝起きして居られた部屋は、同光永家の十二畳に九尺床の附いた奥座敷であったさうでして、この家が猶興学校の校舎に充てらるやうになったときは、私達はこの十二畳の座敷で、広い植え込みの庭を眺めながら中村先生から論語や孟子の講義を聴き、時としては、古事記や神皇正統記等の講義をも拝聴して、日本の国体の世界万国に勝れて尊いことや、我が日本の神様のありがたいことなどを懇切に説き聞かされて、子供心にも有り難く思ひ又或る時間には、神は古武士風の丁字髷に結って木綿の五つ紋付の羽織に小倉の袴を着けられて、床柱の前にお木像のやうに端座せられた校長中村先生の前に我ら少年学生が相対して二列に並び、十八史略や日本政記又は小学の内外篇なぞを互いに口角泡を飛ばして輪講し、又随意科としては漢詩や漢文或いは流し文なぞも作って、先生の添削を請ふたものでした。
私の旧い記憶の糸を手繰って回顧して見ますと、歳は明治十六年のことで、私が丁度十五歳の時でありましたが、時は何でも晩秋の季節で見あぐる空は満天一碧玉のやうに天心までスッキリと晴れ渡って、恐れながら高天原の瑞乃大天照宮の御有様もありありと窺ひ奉られるかと思はれるばかりに快く晴れ渡って、祇園神社の境内に在る一木森然たる大銀杏の無数の葉が一葉毎に黄金色に染まって、色々な秋禽の声がチィチィと自然の妙音を弄して、雨のやうに燦々と金の線を縦横に引いて輝く中を二羽又三羽と隊を組んで、さも楽しさうに飛び廻ってゐる。如何にも気持ちのいい朝のことでしたが、私は朝飯を喰べた後、いつもの時刻に猶興学校に出掛け、旧光永家の表玄関であった広い式台の上にあがり、そこに先着して居た二三の学友と共に今玄関に上った時、学校の門前の石段を上って二十歳ばかりの一青年が、その弟らしく見えるどことなく面差しの似通ったところのある年の頃十四五位の可憐な一少年を引き連れて、飛石伝ひ学校の玄関前にやって来て、まだそこで遊んでゐた私達に向かひ丁寧に一礼した後「弟を御学校に入学させていただきたいのですが、規則書をチョット拝見させて頂けますまいか、それから若し出来ますことなら先生に直接御目にかかって弟のことをお頼みしたいのですが如何でせう」と、いかにもハッキリした言語で申し込みました。生徒中の最年長者がその旨を承知して、中村先生にお執り次ぎしますと先生は快くご承知なさって「それでは今直ちに逢ってやりませうから、その兄弟のものを上に上げて学校の規則書を見せて置いてやるがよろしい。」とおいひでした。
早速その旨を玄関前で待ってゐた青年に通じますと「有りがたう」と一礼して弟を連れて玄関に上り、更に八畳の応接所に通って、そこの壁に掲示してあった先生自筆の校則を一覧する、その青年の容貌服装等を近くで初めてよく見ますと、彼は中肉中背の若者であるが、先づ見る、女にしても欲しいやうな美しい漆のやうな漆黒の頭髪を長く伸ばして、ユラユラと左右の肩の辺まで打被り、満面色白くして唇紅く、鼻筋通って口元キット引締り、勝れて美しい黒目勝ちの玉のやうな眼の光は炯々として電光の如く人を射て、敢て仰ぎ見ることを許さず、真岡木綿三紋附の羽織にて同じ袷を重ねて、白襟の襦袢を着て小倉の袴を着け、腰に米五合も入りさうな法螺の貝をさげ、右の拳を堅く握りしめて、仰いで熱心に校則を読んで居る彼の態度風格は、四辺を払って一大異彩を放ってゐるのを見て、私ども一同は斉しく驚異の眼を彼に集めて、一同心窃にこの青年の何人であるかを皆疑って居りました。
そこに軈がて丁髷姿の中村先生が奥の方から徐ろに応接所へ出ておいでになって、右青年に御面会なされ、自分が本校の校長であることをお告げになって、青年の用向をお聞きになりますと、彼は弟を引き従へて直ちにヒタと畳の上に端座して正しく先生の方に面して両手を下げて恭しく頭を低げ、誠心誠意、長者に対する礼を取って「貴方が予て御盛名を窺って居りました中村先生でゐらっしゃいますか、初めてお目通りを致します」と先づ丁寧に初対面の挨拶をした後、後方に控へてゐた少年を顧みて「これは私の愚弟でして川面正太郎と申し、今年年弱十五歳になりますが、どうか今日から当学校に入学させていただきまして、恐れながら先生に今後御丹誠を願ひたい積りで連れて出まして御座いますが如何でせうか」と云ひますと、先生は快く承諾なさって「それでは校則に依って今日入学の手続きを済まして置いて、明日から課業を修めるやうにおさせなさい、アンタも同時に入学しなさるお積りかな」と先生がお聞きなさると、青年は再び口を開いて「イヤ私は少々用向がありまして明朝早く御当地を出発し、鹿児島の方に参りますから、まだ旅慣れぬ弟の上を何分よろしくお願ひ致します」と弟の事を繰り返して先生にお頼みしました。(未完)
(昭和4年4月発行、稜威会機関紙『大日本世界教』「川面先生追慕録」より)
(*1)「中国の生まれ」著者は、熊本細川藩士の子孫なので、実際は九州の生まれ。
(*2)「北に向かって十五里余の」 葦北郡津奈木町は実際は実際は熊本市の南方にある。
(*3)「岡山の閑谷館」 閑谷(しずたに)学校
(*4)「県社祇園神社」 現在は熊本市西区春日1丁目の北岡神社となっている。