川面先生逸事

濱垣 恒

 昭和五年二月十二日の夜、稜威会本部の東秀生翁と共に、故本会会員本城安太郎氏未亡人郁子女史を牛込の寓に訪づれた。その時の女史の談に、「私は大正十年秋のころより震災前まで、鶴見の総持寺において参禅したことがありましたが、確か十一年の春の頃と思はれますが、碧巌録と無門関の提唱があって出席しました。その時の禅学会の幹事佐藤庄太郎氏の言に、ここ二十日許り前に、禅林各宗の老師達の集会があり、互いに研究の結果を発表し合ったが、当時川面凡児先生は、総持寺の貫主新井石禅師と道交のあった関係上、この座に列席せられ、終始沈黙されて各老師達の説を静聴して居られたが、最後に徐に口を開かれて、もう諸賢の御研究はそれ丈ですかと念を押された。老師達は然様と答へた処、川面先生には、それでは、その後は拙者がお引き受け申さうとて、静かに演壇に立たれて、それより一週間引き続きて御講演があって、一山の老師達を驚嘆せしめた事があったとて、佐藤氏は川面先生を非常に推賞せられ、日本神道には実に一大家が御座りますと言ったので、本城氏は、実はその川面先生といふのは、私の師匠なんですと告げた所が、佐藤氏は、あゝそうでありましたか、貴女も随分お人がわるいと互いに談じ合ったといふことでした。

 

(稜威会機関紙『大日本世界教』昭和五年三月号より)