軒のたち花(1)稜威会機関紙「大日本世界教」より

軒のたち花(1)

飯峰生(注1)

はなたち花の香に触れて

 

むかしを偲ぶ我が筆に春の忘れし、蝶一つみたまの如く飛び来たり、しばし翅を休めたり、

神人万有。邦土宇宙。本体顕彰。天照大神。稜威赫灼。分魂統一。建業立勲。福徳増進。壮快全身。悉帰太神。経緯主鎮。超楽無窮。

こころしてあふぎまつれば久方の 天の最中ぞこひしかりける

大みそらまたなき国を我は知る 天の最中の瑞の大天照宮

太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。太神大神稜威赫灼尊也哉。

「あるときはあるのすさびにつらかりきなくてぞ人はこひしかりける」と申す歌のあるとは皆様ご承知の通りでありますが、本編の筆者は昨今全くこの感を切にするものであります。

恩師川面先生とは何十年と云ふ久しい間、御一緒に暮らして居りました私、御生前には毎日お小言ばかりいただいて居りましたので、実際のところあまり先生をこいしいともおなつかしいとも相すまぬことながらおぼえませんでしたが、御帰幽後になりましては、花につけまた月につけまして日に幾度かは天を仰いで今はそこにおはします先生を我知らず遥拝し奉ることが幾度かあるのであります。ことしの春も上野で落花を見ました時に、

咲きたりと眺めつるまにちりにけり 花もはかなき世のすがたして

と云ふ一首の蜂腰を手帳の端に記しましたのも矢張り「なくてぞ人はこひしかりける」の感が私をしてかくものさせたのでありました。

さて皆様ご承知の通り我国におきましては、昔からたち花は昔を思ひ出させるものだと云ふことになって居り一方にはまた陰暦五月の名称にもなってをりますが、そのためででもありませうか、私がこの節先生の御生前における御言行などについて、あゝであった、かうであったとはなたち花の香に触れて昔をしのぶことは、実に少なくないのであります。折から会員諸君中から何か先生の御逸事を出して貰うやうにして欲しいと云ふご注文もありますので、私は筆を起こしてこの「はなたち花」の一篇を今号から少しずつ書いてみることに致しました。

ただ一言ここに予めお断りして置きますのは、本編中の記事の或るものについては多数の会員諸君中に於かれまして或いは眉をひそめられ、恣に荒誕無稽の言を弄するとか或いは又怪力乱神を語るとか云ふやうな譏りを受ける嫌ひがあるかも知れませんが、本編の記者は決して徒に好んで霊怪談を試みるものではなく、要はただ神道や仙道の絶處に達すれば何人でも自ずからかやうな境涯に出入することも断じて不可能な事ではないと云ふ事実を最も明白に先生御生前に於いて自由自在に実現なさったと云ふ事実だけを、ここに記してまゐりますのが筆者の大目的とする所でありますから、皆様どうか左様御承知を願ひ置きたいものであります。この外まだまだ極端な実例もあった事に聞いて居りますが余りなる事実談は記さずに置くことに致しました。読者方の中に於いて先生について若し何かかうしたお話を御承知の方がおありでしたら、事実の大体だけを御記載の上私宛に御恵送下さるやうにお願い申して置きます。

 

一、先生肥後の人吉に於いて禊の御指導中、一日突然幣を振って東京本部の火事を消し留められた話

この事実は大正七年の八月に当時稜威会本部今日の上野桜木町四十五の霊魂宮に於いて実現されました話で在京会員中にはこの事実を知って居られる方が幾人もおありの事と思ひますが、その年には先生が肥後熊本支部からの御招待によりまして、同県下球磨郡人吉町に出張せられて同地球磨川縁の青井神社に於いて禊の指導をせられることになりました。

ところが一日のことに先生御道彦中に突然何か一大事変でも起こったかのやうにお顔の色をお変へなさったと思ひ受けますと同時に忽ちさまざまの形に幣を烈しくお振りになるのでしたが、その御様子をお見受け申して居りますと、先生御不断の幣捌きの御手振りとはスッカリ御様子が違っていかにも合点の行かぬ有様にお見えになるのでした(非常の場合に行ふ幣捌きの秘事があるそうです)禊に参加してゐた人達は皆変わったことに思ってゐましたが列席者の或る一人が心窃に不審を起こし或る時先生にこのことをお話して質して見ますと先生はおうなづきになって、「アゝさてはそうであったか、実はあの時東京の本部が正に大火災にかからんとしたので吾は取り敢へず幣を揮って、事大事に立到らぬ中に遥にこれを消し留めたのであった」と答へられたさうでした。

さて東京の本部では先生の御留守中に会員の一人が単独禊を行ってゐたのでしたが余りに熱中してゐた為に御神灯の蝋燭の火がどうした時のはずみであったか御神前の御旗に燃え移ったことを少しも知らずにゐる中に事は次第に大事に及ばんとし、焔の或る部分は毒蛇の舌のやうに大祓戸の太神の御前にある五色のお旗は燃え上がりて、危ないことにも今や幾分天井を焦がさんとする時に居合わす人々これを発見して防火に努め漸くして消し留めて幸いに事なきを得たのでした。(注2)

筑後の人吉から東京上野までと云へば三百数十里も隔たって居りますのに、いかにしてか先生が本部に今や正に火災の起こらんとすることを知られて幣を以て遥かにこれを消し留められたなどと云へば、箇中の消息に通ぜぬ人達は忽ち一笑に付して、「馬鹿なことも休み休み云って貰いたい、人間の力でそんな事が出来るものか」と云ふかも知れませんが、神道や仙道を絶處まで究めた人になりますとこれ位の事はお茶の子さいさい朝飯前のことださうであります。私の郷里の肥後の国に於きまして昔これによく似た話が伝はって居りますので、筆のついでにその話の大要をかひつまんでここに記して皆さん方に御覧に入れることに致しませう。

さて私の生まれ故郷の熊本から南方に当たって約三里ばかりの地点に川尻と云ふ町があります。川尻は明治十年西南の役に西郷南洲が本陣をしひてありました所でその名が有名になって居りますが、ここに大慈寺と云ふ有名な曹洞宗の名刹があります。この寺は昔は畏くも勅願所でありました関係から建物のあちこちに金光燦たる菊の御紋が輝いて居ります。この寺の開山は皇族の御出身で唐の国に渡られて同地の育王山で多年修行された方でして非常な御大徳であったと伝えられて居ります、何しろこの寺は九州三大道場(筑後の梅林寺、筑前の聖福寺、肥後の大慈寺)の一に数へられた程の名刹でありますので、今日でも大勢の雲水が集まって居りますが、寒厳禅師時代には数百名の雲水が集まって居て修行してゐたものだそうです。お話はここで愈々本題に入りますが、一年の冬の夜の月が明皎々として境内の金仏や石仏の頭の上に冴えかへってゐた冬の深更の事でしたが寒厳禅師はさも事のありさうにムクと刎ね起き数百名の雲水どもを忽ち本堂に呼び集め、元気に満ちた雷のやうな声を放ちて「いかに各事こそあれ、今夜只今唐の育王山に於いて火を失し、今正に大に燃えやうとしてゐるから早くこれを消し留めぬことには貴重な宝物も悉く烏有に帰して了うことになる、よって吾はこちらから水を送って早くその火を消し留めやうと思ふ志のあるものは吾につづけ、何でもよろしい各自名々に思ひ思ひの道具をもって少しも早く緑川の水を酌んで西に向かってかけられよ」と云ふが早いか、禅師は手桶を提げて大慈寺の後を瀬の音高く走り流れてゐる緑川の水を手桶に一杯すくうが早いか「皆なかくの如くせよ」と云ひながら西の方に向かって一杯ザンブリかけて見すると、禅師の命令の下に一同之に従って、或るものは柄杓に水をすくい或るものは桶にすくい茶碗にすくい、或るものはまた小桶にすくい或いは鉄鉢にすくうと云ふやうにして、数百名の坊さん達は禅師の指揮の下に凡そ二三時間の間も西に向かって水をぶっかけることに努力をして居った。やや暫くした後、禅師は高く声を放って、「アア皆の衆ご苦労であった。お骨折りに依って只今やっと育王山の火が消えて仕舞ったに依って、一同早く部屋に帰って眠るがよろしい、今後余り速くない中に、育王山の方から当方に当てて何とか便りがあるだらうと云ふことであったので、雲水どもは始めて坊に入って眠りに就いた。

すると寒厳禅師の言は誤たずに、それから二三ヶ月も立った後のことに育王山から禅師の下にある便りによって手紙が届いた、さもあらんと禅師は破顔微笑して読んで見ると、先夜当方に於いて火を失し正に大事に及ばんとする所を御尽力に依ってさすがの猛火も鎮まった為に寺院は勿論一切の宝物に少しの殃もなかった事は、これみな御尽力に依るものと厚く感謝し奉る右御礼のお印までに当方より近き中に雄鐘雌鐘雌雄一対の梵鐘を贈り申しに依り何卒お受取り願いたいと云って非常にこちらの厚意を喜んで来た。

禅師はこの事を諸家などに話して鐘の来る日を待ち受けてゐると、その翌年の春阿蘇の烟に続いて霞の棚引き始める頃になって果して雌雄一対の梵鐘を積んだ船が肥後の三角港に着いて、そこで鐘を揚げると云ふ便りが重ねて禅師の下に届いて来た。せっかくの厚意故に禅師はその日三角に出張って待ち受けていると海上事なく三角に一艘の船が入って来て荷揚げをする事になった。禅師は海岸に立って見てゐると先づ雌鐘の方を先に揚げやうと仕かかったが、どうした過であったか鐘は上に揚げられずに海の中に落ちて千尋の底にとグングン沈んで行って仕舞った、すると不思議な事にはその時既に揚げられて居った雄鐘の方も雌鐘の後を恋ひ慕ひでもするやうに自分で海に落ちて雌鐘の後を追うやうに海底に沈んで行かうとするので、これを見るが早いか寒厳禅師は「コレ待て」と言ひながら持っていた如意を持って押さえ留めて、漸く無事に陸揚げを終わり大慈寺に持って帰らせて鐘楼に釣って撞き鳴らして見ると、この鐘には多量の黄金が入ってゐるところからその音声の爽やかさは何とも云へず、一たび之を撞けば三里も五里もその声が聞こえるのであるが、どこまでも雌鐘を慕うものと見えてその余韻が、「おれも三角の瀬戸に行かう」と云って鳴りつづけると云ふ伝説が今も土地に残っている。その道から深くこれを研究してみれば、これ全く川面先生が人吉から本部の火を消されたのと同工異曲と云はれぬ事もないであらう。

(稜威会機関紙「大日本世界教」昭和六年六月号より)

 

(注1)「飯峰生」 川面凡児先生の最も身近におられた側近の、東秀生氏の号です。

(注2)現在、稜威会本部の御神前で使用している案にも焦げた跡があります。先輩の話では、昔蝋燭が倒れて火事になりそうだった時の跡だと聞いていますが、この時のものかは不明です。