禊の霊効より
※以下の体験談は、昭和四年発行の「禊の霊効」という冊子から、禊の体験談を抜粋、編集しています。難解な漢字、言葉づかいは現代漢字、用法に直させていただいております。
●T氏 (鳥船について川面先生から聞いた話です)
自分がある時先生に修禊中にやる「天の鳥船運動」のおこり等のことについて質してみたことがあったら、先生はその由って来たる所を歴史的に一通り説明された後でまた次のような我等が日常生活上に極めて有益な話をされたことがあった。
神道のある伝によると、今日の「解剖学」上の言葉をもってすれば、人体の躯幹の後壁をなしている三十三個の椎骨は、今日ではこれを区別して真椎仮椎とし、真椎は二十四個にして上の七個を頸椎、中央の十二個を胸椎、下の五個を腰椎とし、仮椎は九個にして上五個を薦骨椎、下の四個を尾閭骨椎とすることになっているが、昔は上五個頸椎のことを単に頸の骨、十二個の胸椎のことを単に背骨といい、下五個の腰椎のことは単に骨といっていたものであった。ところが話はかわってそもそも人体には「三拍子」というものが備わっていて、その三拍子さえ日々調節して行くならば、人はいつも無病息災で楽しく過ごせるものである。もしその中の一つでも欠けて来たとなると、その人の体には直に何か故障が起こって来るものである。
然らば「人体の三拍子とは何ぞや」ということになると、その第一はよく食うこと、第二は、よく排泄すること、第三は、よく睡ることである。この三拍子が人の体に毎日よく申し分なく調って行くならば、それは何よりの健康の兆候であるが、もしこの三拍子の一つでも狂って来て、物が食えなくなるとか、便通がなくなるとか或いはまた夜間よく睡れなくなるとかして来た時は、その人は既に病にかかりもしくは近く病にかかろうとする時である。
それ故に人は自己の健康を安全に保持して行こうというには、常に我が身体の以上三拍子の調節に注意することがこれ何より大切な健康法であると共に又体力増進法ともいうべきものである。然らば以上三拍子がその調節を失って来て、例えば物が食べられなくなるとか、通じがなくなるとか、又は夜間快く熟睡することが出来なくなった場合にはどうすればよいとかいうと、我が神道においては、その方法が昔から既に伝えられているのである。
胸椎即ち十二個の背骨が円滑に動かなくなると食欲が減退して来て物の味がまずくなり、食事が進まなくなってくる。そんな時にそのままにしておくとすぐに体力が衰えてくるから、適度の運動をして、十二個の背骨が自由自在円滑に動くようにすれば、食欲は自然と出てくるものである。
頸椎すなわち頸の骨が円滑に動かなくなって来ると、自然眠れなくなるものである。又人は腰椎すなわち腰の骨が運動不足のために円滑に動かなくなってくると、便通が十分に思わしくなくなってくるものである。
修禊中に行うところの天の鳥船運動の目的は全くここに起因するものであって、熱心に鳥船運動をやれば頸椎と胸椎と腰椎とが自然適度に運動するようになっている。
鳥船運動にしろ裏表の伊吹にしろ、または発声、振魂などにもせよ、我が神道においては他の一面においては全て皆、こうした意義をも含んでいるものであるからして同じく鳥船運動するにしてもなるだけ頸椎と胸椎と腰椎とをよく運動させるような気持ちで行って欲しいものである。
●T氏 (健康を快復し、神様にも及ぶ体験です)
私は二十五歳の時、大患にかかって危く生命を持って行かれようとして以来どうしても健康を恢復することが出来ず、もはや元のような健康な体になるということはほとんど自分で諦めて、我れながら不甲斐なくも医者の推めてくれた食養と摂生とのカセに身を縛り付けられて、不平や不足を訴えるほどの気力すらなしに、毎日ものうい体を持ち扱っていつも暗い気分で過ごしていたのでした。
~いよいよ禊を始めてみると面白い。一合の粥と二個の梅干と極めて少量の胡麻塩とを一日の糧として、朝未明より夜は夜半まで、猛烈激甚な運動を続けながらそれで疲労ということもなければ、また倦怠の念も起らない。
身は次第に軽く、次第に引き締って、その動作は、さながら鞠のはずむが如く、これが真に神躍りに神躍るという神の祝詞をそのままであろうと思われるのでした。両脚の甲は破れて血に染っても、大神の御声を一声エイと打込んでおけば更に痛みもなく止って、何の苦も感じない。ここにはじめて我が前途を照らす一道の光明を認め、「何も自分だからとて、病気と離れられぬ関係のあるわけではない」と覚り得ましたので~。
~近所に瀧川某という大工さんが居りました。その子供に辰ちゃんという五六歳位の子がありましたが、辰ちゃんはある日急病にかかって見ている中に体が硬直(こわば)り同時に脈拍も絶えてしまいました。「あいにく医者が家にいない」といって家人は慌てて為す所を知らず、ただ途方に暮れて嘆き悲しみ~
そこにかけつけた私は窃かに「大祓戸大神」と大御名を称え奉って静かに死児の足先に立ち、指を腹部に当って「エイ」と一声強く打込んで裏の秘事を行って見ますと、例へば水に離れて今にも死のうとしていた魚が水でも注ぎかけれらたように、一度息の絶えていた子供の体には再び次第に体温(ぬくみ)を生じ、幾分ずつ生気を回復して来た後に一度硬直っていた体が次第に少しずつ軟かになって来て、顔にホンノリと紅みさえさして来て、終にはパッチリと玉のような両つの眼を見開いて紅い温かな唇を自分の舌で舐めて湿しながら眼元に笑みの色さえ浮かべて不思議そうにあたりの人の顔をしげしげと見るようになった時の私の嬉しさは、イヤ嬉しいというよりは、一種厳粛の気に打たれ、全身神秘の感にヒタヒタと浸り潤って我れ我れを打忘れて、唯だ心の中で一心に大御名を唱え奉るの外はありませんでした。
ところが、一度禊をして見ますと驚いたではありませんかマア何という醜いものがあることでしょう。
マア何たる怖ろしい姿でしょう、唯々私は今にも絶倒せんばかりになって、一心に神様に縋り付いたのです。黒煙の渦巻き流れる中に、煤色で一本足の妖魔が幾千万とも数知れず、縦に横に、或いは斜めになり倒になり、風に乱れる秋の枯尾花のように入り乱れ互いに絡み合って烈しく闘争しているのです。併し、それが単にそれだけならば、さまで驚き怖れることも無かったでしょうが、この乱闘、実に思わず目を覆わしむる幾千万の禍津毘(まがつび)こそは、皆これ私がかつての思想そのものであったというではありませんか。
マア何という情ないことでしょう、その思ったことがこうした浅ましい姿に変じて、今現に私自身と共にあるではありませんか。いかに耳を覆い、また目を隠したからといって、それが消えもせねば、また隠れもせずそれ等の怖ろしい妖怪(ばけもの)どもが私の身辺をヒシヒシと取り巻いて私と一緒に、今生より来世にイヤ未来永劫にかけてまでも私と共に流れ流れて行こうとするではありませんか。禊の霊効によってヤットこの事の分った私は実に戦慄(ふるえおのの)いたのです。
こうしたこともかつてより抽象的の説明としては聴きもしました。また自ら想ってもみましたが驚きませんでした、絵を見る程度より以上には怖れもしませんでした。おとぎ話を聞くと同じくらいの気持ちで聞いていたのです。
要するに愚昧なる私はこれまで盲目であったのです、その目を開けてくれたのは禊でありました。
禊の眼には見ることの出来ない世界はないのです。隠れたものは顕わるるものであります。
この眼を開いて、初めて人の行くべき神の道を認め得た時の歓喜(よろこび)はどんなでしたろう全く例えようもありませんでした。ここに到っては醜怪至極な悪魔の徳も、また実に偉大なものだということを、つくづく感謝するものであります。我が恩師川面先生は、「禊七日の効果を、一カ年の座禅にも勝る」と仰せられておいででありましたが、健康の上にも福徳の上にも倫理の上にも、はたまた見性成仏の上にも、禊の霊効は誠に著しいものであるということを私は当時つぶさに体験しました。
夜半にフト目覚めて、天井板の木目までありありと見えるのに打ち驚き、ガバと牛起きに跳ね起きて床の上であたりを見回せば、家族の誰彼の寝顔や戸障子などの有様や、額の掛かっているのなどが全然昼間同様に一々ハッキリと眺め得られるのです。
かようなことは、禊をする人々の誰しも親しく経験するところですから、何も私が殊更めかして物語るのではありませんが、これこそ、真に禊に依って、自分の中真点である直霊が強く鋭くなって来たという証明でして、先づこうした順序を経て世の修禊者達がこれから段々に直霊の開発に向かい始めるのであります。
直霊開発し、直霊開発し、直霊の開発によって、初めて、修理固成の御神勅に答え奉るの神業を建設することが出来るのであります。
●A氏 (家族の調和、商売についてです)
わずか七日間のことではありましたが、この時の最初の禊が私はじめ家族一同の胸の中に信仰の基礎を据えさせて頂くことになりまして、それから後は一家こぞって朝夕必ず拝神するようになりました。
一度こうして信仰の人となりました後は、互いに相譲り合ってどちらからも親しんで助け合うようになりましたので、家に叱咤の声を聞かず、又、怨嗟、煩悶の声を絶って、一家よく和合して、春の花に集まる小鳥の群れのように楽しくその日を過ごすようになりました。
「何事にも禊の心持を以て当れ」という処世上の我が信条を自得しましたので、その後は我が家族に臨むにも、商売をするにも、世間の交際をするにも、総てみな禊の心持をもってやって行きますと、私の身辺の事情は自然よい調子に物が運んで行きまして、常に心広く体ゆたかなりという体でその日を安らかに過ごして行かれるようになりました。
その為今日では家庭は円満に行き、商売も順調に発展して行き、その他数多の幸福を自然とおたすけにあずかりまして、その日そのひを結構に過ごさせて頂きます、私の現在の幸福な新運命は、その本を質して見ますれば、皆これ禊に依って得た収得と申すことになるのであります。
●O氏 (真言宗の僧侶から禊の道に入った体験です)
その時分は今日のように禊は誰にでも許されるのではなくて、大勢の御門下中で今度は誰、この次は誰と「先生の御指名で禊を許されるのでなかなか厳重でございました。
私は川面先生にお目にかかる以前は、東京市四谷区の愛染院の末寺で道乗院という新義派真言宗の一寺院に起臥し、時の傑僧雲照律師と並び称せられていた愛染院住職宥乗阿闍梨の法統に依り、十八道加行、不動法、護摩法、愛染法などの密教部の諸修行に日夜没頭し、暑中は毎年東京府下西多摩郡高水山に籠って七ヶ年間連続修行に力めあらゆる難行苦行の結果、真言の極意を修め得まして、私の予言の的中することは、当時同宗の老僧連や、その界隈の男女に不思議がられた程でして、どんな事でも人の質問は言下に即答し、又その予言が一々的中し、チョット目を瞑るれば、その間二三秒時を出でずして物体の形状、人の過去、現在、将来の事までも明々(ありあり)と、その有様があたかも映画のように顕れて来ますので、自分ながらも全く不思議でなりませんでした。
これは実にキビキビして俗受けのする能力でして、世間に「あの行者さんはエラク出来る行者さんだ」などといって騒がれるのは、大抵これなのであります。普通の行者なら、大抵この境に到れば世間も許し、自分でも満足しているものであります。そしてどうしてコンナ働きをするかというと、それはある一つの霊が修行者の体内に宿るからであります。
この霊は禊流の直霊すなわち自己心霊とは全然異なったものなのであります。さて私にも当時この種のある高級の仏霊が宿ったために、こうした不思議な霊能(はたらき)が起こって来たのでして、当時は人も許し自分も慢心しておりました。しかしあまり色々な不思議がありますので、「どうかして勝れた霊能力に逢って指導を受けてみたいものだと思っていた矢先にちょうど、私の友人の兄に当たる御嶽教副管長須賀友彌氏が米国に神道の布教を終り帰朝せられたと聞き、須賀氏の門を叩き教えを乞いますと同氏は親切に、「それでは自分の先生にお話をして伺ってみてはどうだ」といって下さって、初めて私を川面先生の所にお伴れ下さいました。
しかしその日は先生は私に別に何もおっしゃいませんでした。その後二回目かに私が先生にお目にかかったとき、私自身より外には決して誰も知ろう道理のない筈の私の憑霊の名を先生はハッキリと名言せられまして、当時先生に事へておられた舟橋氏をお呼びになって、「舟橋や、この○○様(私の憑霊の名)にお蕎麦でもご馳走して上げろといわれましたので、私は実にびっくりしました。しか先生の御一言に依りまして、これまでの私の霊能(はたらき)は禊でいう自己心霊の霊能ではなくて、全く憑霊の霊能だったということが明らかに証拠立てられました。そこで先生が私に仰せられますには、「それでもよろしいが、神様として真個(ほんとう)の物になれぬから真に神の道を修めたいと思うならば憑霊の○○様と縁を絶ってわしの所に出直して来い」ということでした。
これから私は川面先生を我が師と仰いで神道を学ぶことになり、拝神しては先生と問答をし、道の研鑽に熱中して、毎日先生からお与え下さる問題に対して我が思う所をお答えして御教えを受けることに致しておりました。それから約半年ばかりも毎日先生の所に上って一意道の研究に努め、「ウムそれでよし」とのお許しのお言葉を耳にするまでには随分苦心をいたしました。ようやく憑霊との縁を断ち切り、それから初めて神道にはいって禊をすることを許されたのでした。
時しも大正二年一月元旦の夜から禊を始め、三日目の午前中大祓戸大神の大御名を奉称しておりますと、自分の前に自己の霊が厳然として現われましたので、我が身の内に心霊のましますことを始めて知ることが出来ました。これがそもそも禊流の神々方と交通する大切な最初の関門であります。
川面先生はご存じの通り至ってジミな御仁(おかた)でして、何事も仰せられずに御帰幽あそばされましたので、そのため随分御教えのほどを疑うようなお方もあるようですから、私の体験談を記す筆のついでに川面先生のお叱りをも省みず、その一端だけを始めてここに公にいたす次第でございます。
●A婦人 (病弱な自分が健康になり、考え方も変化した体験です)
本来私は子供の時から気の沈む癖がありまして、賑やかな所よりもヒッソリとした寂しい所を好み、「どこかこう世離れした山奥の暗い岩屋の中にでも、一人で住んでいたならば、どんなにいい気持ちだろう」と思っていた時もありました。
そんな風でしたから何事につけても、ともすれば物事の暗黒的方面ばかりを見てはつまらなく自分で悲観し、光明的方面を見て気に勇みをもって活動することの出来ぬ習性(くせ)があって、少なからず困っていました。
ですから世の月花に対して歌を一つ詠(よ)んでみましても悲観的なものばかり出来まして、どうしても人様のように楽しい思想を歌う事が出来ませんでした。
全く不思議なご縁でして川面先生の御教えをお受けするようになり、一時は本部に宿泊させていただきまして、連続的に修禊することになりました時、先生が時折題をお出し下さって私に歌をお作らせになったものですが、いつも持ち前のよくない習癖が出まして、悲観的なものばかり出来ますので、先生は私の詠草にいつも赤インキで棒をお引きになりまして、「マダマダこんな弱いことじゃいかん、モット真剣になって禊を行らなければいかん」と励まして下さっておいででした。
私もどうかしてこの習癖を矯正したいものと思いまして一生懸命本部で連続的禊をしておりますと、その効(しるし)が回一回と次第に霊現してまいりまして、幾分ずつ暗い気分が薄らいで行きまして、ついには燦然たる一道の光明を我が身の前途に認めることができるようになりまして、まるで汽車が長い長い暗いトンネルを潜り脱けて燦然たる一望万里の平野に出て、春の光の暖にさす、喜びに満たされた路にでも出たような気持ちが致しました。
いざさらば我も雲雀と歌はなむ かげらふもえる春の野の邊に
という即興一首を認めて先生にお目にかけますと、先生は明るいお顔をお見せになりまして、「殊更でなく、いつも自然にこうした気分でいられるようになるまで禊をしなければいかん」とお励まし下さいました後で、御自身でお筆をお執りになり「わしも今朝雲雀の俳句を一つ作ったから見てくれどうだ」とおっしゃって、
歓(よろこ)びを天まではこぶ朝雲雀
とお記しになって私に下さいました。
こうした所からだんだんに教えの道に入らせていただきまして、今日では日々夜々心肉共に何らの悩みもなく常に誠に明るい気分で楽しく過ごさせて頂くようになったのでございます。
●H婦人 (リュウマチから元気になり、信仰上でもいろいろ体験されました)
私は今日から十余年前に、ひどいリュウマチスにかかりまして、自分で起居(たちい)をすることはおろか寝返り一つ打つことも出来ませんで、その悩み方といったら、実になんともいいようがありませんでした。医薬にも百方手をつくしてみましたが、少しも手当の効が見えませんので、私は発病後半年あまりの間に体が衰え弱っていきまして、自分でも最早到底本復して戸外に出て、再び美しい日光に当たる喜ばしい時節に会うことがあろうなどは思っていませんでした。
そうした惨めなありさまでして、自分もひとさまも甚だ頼み少なく思っておりましたところに、ある日のこと川面先生がお見舞いにお越し下さり、長のわずらいに衰えきっている私の顔をじっとご覧になんておいででしたがお静かに、
「なるほど軽い病気ではないが、ナニまだまた決して一命にどうというような気づかいは決してない。それじゃあ、わしが一つ早く治る法を教えてあげよう。勿論医薬の手当は一方に十分受けるとしておいて、寝ているままで差し支えないから、朝夕二回心の中でなりと、神様に暑くお礼を申し、毎日二三十分間ずつ鼻からソロソロと徐(しずか)に息を吸い込んで臍の下に溜めてジッと耐(こら)えて下腹にいくらか力を入れるような気味合にし、苦しくなったら、その溜めた息を、今度は口からソロソロと徐(しずか)に吐き出してしまい、また鼻からソッと吸い込んでは腹の下に溜めて下腹にいくらか力を入れるような加減にし、耐えられなくなったらまたソッと口から吐き出すようにしていれば、その中にいつとなく体に力も出て来ようから、どうにか少し体の自由がきくようになったらば来春陽気の暖かくなって来たところで、一つ禊をしてみたがよかろう。そうすれば、その中には大丈夫治ってまた働けるようになるだろう。ただしわしが今教えたことも急に激しく長い間行ってはいかんから、最初はまず出来るだけソロソロと静かに五分間くらいも行うことにし、慣れるにつれてだんだん時間を延ばしていって、しまいには三十分間でもまた四十分でも続くだけ長くやるようにするがいい」
今日思い合わせてみますと、そのとき川面先生は私に伊吹のしかたを教えて下さいましたのでした。
お医者にかかって、治療を受けております一方に私は毎日一心に先生から教えて頂いたように伊吹の療法を行っておりますと、いつとなくだんだん体に力がついて来まして、「ハアこの分ならば今に又きっと治るな」という確信を得られるようになってまいりました。何しろまだ現代の医学の力では治らぬほどの大患でしたので、急には快方に向かいませんでしたが、幾分ずつは治ってまいりました。大正七年の五月二十日から片瀬で開催されました桃のお禊にはともかく参加させて頂けるようになりました。
この時一回のお禊だけでは、御霊効を的確に頂く事が出来ませんでしたが、翌大正八年から両三回引き続けて一の宮の桃のお禊に必ず参加するようにしておりますと、追々にお禊の御霊効が顕われてまいりまして、煎り豆に花と申しましょうか、又は枯れた骨に肉と申しましょうか、一時は最早到底治らないものと諦めておりました私の体がついに今日のように丈夫になりましてございます。
私はこうしてお禊から新しい生命を頂いたばかりでなく、それと一緒に精神方面にもまた多くの有り難い頂戴物をいたしまして、我が身上に関する総ての物事を予知する上において幾分の霊的能力を自然とお授けにあずかりまして、それがために又我が身の処世上どれ位お助けにあずかることか知れません。
●H氏 (ご自分の病気ばかりか奥様の病気も治った貴重な体験です)
私は大正五年の春あたりからひどく脳を病(わずら)い、他に併発症もありましたので、大いに体力が衰えまして、精神力も共に衰え、一時はほとんど最早人間線の戦線に立つことが出来まいかと自分でも気遣われる程でした。
同年の秋、最早何でも都門の空に近く初雁の声をも聞こうという頃のことに、ある日上野の公園を散歩しておったとき図らずも知友に出会い、その日同氏につれられて上野桜木町稜威会本部に参拝して我が国の祖神に関する川面先生の御講演を、初めて拝聴しましたのが、私と先生との間に深い一筋の因縁の糸の引かれる起点となりまして、私はその後日曜毎には必ず、稜威会に参拝して先生の御講演を拝聴し、我等が祖神について学ぶことを何よりの楽しみにして過ごすようになりました。
その年いっぱいも私の健康は快復せられずにおりますと先生がある日、「一つ思い切って禊をしてみたがよかろう」とお勧め下さいましたので、早速その気になりまして、明くる大正六年一月二十日からむこう一週間片瀬で大寒禊に参加致しました。
すると修禊後、体の調子が漸々に良好になって参りまして、先生が何時も仰せられる所、身体の三拍子が誠によく調節せられ、食物は美味しく食べられ、夜間は誠によく熟睡し、不要終産物は日々少なくも一回以上宛体外に快く排泄せられるようになり、体重が二貫目近くも増加してきました。それにつれて精神力の方も非常に旺盛になってきましたので、図らずも私は心身共に救われまして、また元の近江上人の一人に立復(たちかえ)って強い信念の下に遺憾なく自性を発揮することができるようになりました。
その後私が毎年寒暑二期のお禊には何をおいても必ず参加するようになりましたのは全くこうした訳からです。
すると今度は家内の方が何時となく健康を失いまして、現代医学の力では救うことの出来ないような渋滞に陥ることになりました。
最初は結核性肋膜炎に罹って病床に就き、大正六年の秋の末になりますと、子宮内膜炎を併発して、次第に頼少い症状に陥って参りますので、有名な産婦人科の専門医に治療を受けてみましても何の効験も見えず、日一日と衰弱の度を加えてまいりまして最早到底本復は望まれませんでした。
それでは家内も是非禊に参加させることにしようと決心し、
「知っての通り、わしも去年一度禊をしたら、今この通り丈夫になんたから、どうだお前もひとつ奮発してお禊をしてみては」と、初めは先ず軽く言って病人の気を引いてみましたが、別に何とも答えませんので、私は更に別な言を以て、
「わしは夫の情を以て、どうかしておまえの体を治してあげたいと思うから、一度お禊をするようにすすめるのだが、お前の方には、それじゃ一つお禊をして丈夫になんて主婦の任務を完全に果たすようになろうという気もないのかね、お前にもよくまあ考えてみてもらいたい。イヤ今日は何処が痛い、イヤ今日はここが苦しいなど言って病苦ばかり訴えられた日には、夫は全く立つ瀬がないではないか。お前の病気を治してやりたいから禊を勧めるのである」等と言いますと、家内はしばらく考えておりましたが、
「それ程までもおっしゃって下さいますようなら、明日一度お医者様に伺ってみました上で、お返事をすることにしましょうから、どうかそれまでお猶予を願います」ということでした。
翌日、他から帰って来た時、改めて返事を求めますと、家内は低い声で、「今日医者の先生に伺ってみましたら、お宅のご主人は常識のおありなさる方ですか、これほどの重体のご病人さんに一週間もお粥とごま塩ばかり食べさせておき、その上無法にも朝夕二回ずつ海に入れるなどはマアなんという常識なことでしょう。それでいいか、悪いか別段医者におたずねなさる必要もないでしょう。結果は甘くいって寝台車か何かでお帰りになることが出来、もしまかり間違ったなら、ドッと険悪状態に陥ってしまいなさることでしょう」とおっしゃっていたと話し、決心しかねている家内に向かって、
「医者の言う通りお前がお禊をしたためにもし病気の重くなるようなことがあったら、その時はわしがどんな名医の手にかけてなりと大切に手当てをしてあげて、夫の本分を尽くしましょう。しかしそれでもなおお前がわしの言うことを聞かぬようなら、今後はどうかわしにイヤな顔を見せぬようにして、何処へか引っ込んでいてもらいたい」と今度はキッパリ強い言で宣告しました。
すると家内はしばらく考えた後、決心の色を見せまして、「それ程までに言ってくださるなら、私も明朝ご一緒に片瀬に参りまして、いかにもお禊に参加いたしましょう」と初めて判然と答えました。私は満足して、「おお、よく聞き分けてくれました。それでこそわしと一身同体の人だと励ましてやりました。
翌朝、夫婦車を連れて東京駅に向かいましたが、なにしろ大病人のことですから、ホームに出る石段を昇るにも私が背後からそっと抱えてやるようにして、連れていって汽車に乗せ、目的の片瀬まで連れて行きました。
自分ひとりでは潜海が出来ませんので、私が手を引いてやって最初の潜海をすましました。それから拝神になりましたが、他様のようにただしく座ることができませんので、ほとんど体を二重にするようにして、私の側に屈んで振魂をするにも、ホンの形ばかりでわずかに両手を結び合わせて少しずつ、動かしているだけのことでした。
私も内心実は危険に思わぬでもありませんでしたが、弱い色を見せてはならぬと思いまして、力めて強く、
「ナニ大丈夫だ、お禊をすればお前の病気はきっと治る、わしが付いているから決して心配することはない。いよいよ行事をすることが出来なくなれば、お前だけは別室に寝かすようにしてやるから、何事も安心して一生懸命出来るだけ続けてやるがいい」と言い聞かせますと、病人も一生懸命で振魂をやりまして、最初の一日を無事にすまし、夕方の潜海も別状なく終わりました。
第二日目の朝になりますと、潜海も振魂もほとんど出来かねるまでに弱ってきましたので、私も大いに心を悩めましたが、せっかく始めさせたものですから、なろう事ならば終りまでやらせたいと思いまして、側に付いて力をつけ、いよいよ出来なくなれば、わしが何のようにも介抱してあげるから少しも心配することはない。その中には今に必ずお禊の霊効が現われてきて、元気も出ようから何事も安心してなるべくは続けてやるがいいと励まして、第二日もまずは無事に修禊させました。
すると第三日目の朝潜海中に家内は突然多量の子宮出血を見ましたので、自分でもびっくりして、「これはもうこのまま動けなくなるのだな、と思ったそうでしたが、ともかく無事に朝の潜海を終わりまして、一日の間何事にか私の側で行事を続けることが出来ました。
第三日目の朝潜海の時には本人も心配し、私も再度の出血を恐れておりましたが、この朝は何事もなくて潜海は終わり、拝神に移りますと、前二日の間とは違い、この日あたりから、魚の水を得たように急に元気が出てきまして、振魂もちゃんと座っていて出来るようになり、夕方の拝神の時からはまるで別人のように元気がよくなってきまして、発声や鳥船運動などをも人並にひどく元気でやるようになりました。
終禊祭の時などは、実に驚くような勢いで鳥船運動などを行い、発声するにも、声の張りに力が籠もって聞こえるようになりました。それに伴って血色も優るれば、気にも勇みが出て来まして、万一の場合の用意に持っていった薬などはスッカリ海に捨ててしまい、帰る途中汽車の中などでは、さも美味しそうに片瀬饅頭などを食べまして、病前同様極めて快活に高い声で打笑いなどして、ご同行の皆様方とお話をするようになりました。
私ども夫婦は修禊によりまして二人ながら、こうして肉体の上に新生命を与えられたばかりでなく、精神の上にも、強い信念と確かな安心とを与えられまして、今日の有り難い信仰生活に入らせていただくことが出来たのであります。