最近の禊の感想文です。
 



●T氏(平成24年 寒禊に参加して)
昨年末に19年間の会社努めを辞め、独立してちょうど会社を立ち上げたところで米本先生から今回の寒禊のお話しをいただきました。これも何かの縁かもしれないし、何か得るものがあるかもしれないと感じ、仕事の関係で3日間だけでしたが、初めて参加させていただきました。
準備の段階で一番苦労したのは、フンドシが見当たらないことでした。還暦用の赤や和柄のフンドシは呉服屋や和装屋には置いてあるのですが白の越中フンドシは取り扱っている店がなく難儀いたしました。結局、百貨店で「クラシックパンツ」という商品名で売られていて手に入れましたが、ネットショップではいろいろ売られていて簡単に手に入ることを後で気づきました。
参加当日、時間的に余裕を持って車で現地に向かったのですが、三連休初日ということもあり道路が渋滞し集合時間のギリギリで到着しました。着替え終わったところでちょうど時間となり、「教典奉読上の注意」以外は右も左も分からないまま神前に入りました。
新参者であるし郷に入らば郷に従えとあるようにとりあえず周りと同じことをしようと臨みましたが、周りにいた人が座ったままいきなり体を上下に激しく震わせだしたのはビックリしました。後で振魂と分かったのですが、自分には分からないけどみんなには何か霊的な作用が起こっているのかと最初は錯覚しました。
その後、海岸に向かいました。天気も良く風も穏やかな上、何よりも彼方まで続く砂浜と眼下に広がる太平洋の大きさに感銘を受けました。このような見事な海岸は生まれて初めて見ました。その中で始禊祭が執り行われましたが、ここでの鳥船にも初めはビックリしました。
そして再び神前に移り拝伸いたしました。自分としてはここからが苦行の始まりで特に正坐が苦しかったです。ここ何十年も長時間正坐したことがない上、90キロオーバーの体重では足への負担が厳しく、さらに教典の奉読も初体験で時間が永遠に感じられ最初は精神統一どころではありませんでした。
そうこうしているうちに夕食になり、玄米粥と梅干をいただきました。素朴ではありますが、かえって新鮮で改めて食べることの意味をかみしめることができおいしくいただけました。最後に講話があり、この時初めて一連の流れを大まかに理解できました。そして就寝、一日目を終えました。
二日目、夜明け前の薄暗い中でしたが雲もなく、星もきれいに見え絶好の天気でした。海岸にフンドシ一丁で浜に出ると釣り人の奇異な視線を感じつつ、鳥船で気合を込め海に入りました。ちょうど水平線から太陽が昇り始め、あまりの見事さと自然の雄大さに非常に感動いたしました。
後で聞いたのですが、気温は2度、海水温も12度位で波穏やかで風もなく潜海としは非常にやさしいものとのことでしたが、それでも初体験の自分としては身体が沸騰しているような感覚に陥り、何か大きな力が湧いてくるような感じがしました。周りの痩せている人が寒さで体中がガクガクしているのを見てこの時ばかりは脂肪だらけの自分の体に感謝しました。
その後は、定められたスケジュールに沿って進みましたが、拝神も回を重ねるほど精神統一を図ることができるようになりました。講話では米本先生の医学的な見地からの禊の効果には非常に感銘をうけました。
3日目、中日祭と神社参拝までの参加でしたが、人間の精神力の素晴らしさと目に見えない力の存在に触れることができ、日頃の忙しさの中で見過ごしている自分の存在意義を考えることの大切さを痛感いたしました。
最後にご指導いただいた浦野先生、米本先生、江島先生、温かくおいしい食事と甘酒を準備していただいた奥様、いたらない自分に優しく接していただいた諸先輩方、同じ初参加で励まし合った同僚の方、本当にありがとうございました。今後も機会があればぜひ参加させていただきたいと思います。

●S氏(寒禊に参加して)
四日目までの参加で皆様にはご迷惑をお掛けしましたが、今年で九回目の寒禊を無事終える事が出来ました。これまでご指導頂いた浦野先生、米本先生、江島先生に改めて感謝申し上げると共に、いつも元気を分けて戴いている同胞の松本さん、永山君にも感謝申し上げます。
今年は総じて穏やかな天候に恵まれ、我が身には爽やかな寒禊となりました。それで良かったのかどうか分かりませんが、初回の潜海(二日目の早朝)ではご褒美のご来光を拝める幸運にも恵まれ、神様に見守られながら寒禊を行っていることを実感しました。
 寒禊を続けて何が良かったですか、ご自身何か変わりましたかと問われると非常に心許ない気がします。ただ生来愚鈍で何も取り得がない私が、これを止めてしまうと本当に値打ちがなくなるような気がしており、貴方は続けなさいと背中を押されている気がします。
来年こそはいつも元気を分けて頂いているだけでなく、その数分の一でも参加者の皆様にお返しができるよう、今年一年その準備をして過ごしたいと思います。

●O氏(菊の禊に参加して)
  今回、日程的にちょっと苦しく、初日は欠席させていただいて、その夜に到着する、ということにさせていただきました。
  2日目、朝は大分頭が朦朧としていました。しかし菊の禊の朝の潜海時、気温は15度位あって、寒の禊の午後(8度位)の倍くらい暖かいはずなんですけど、体感的には結構肌寒く感じるのです・・。(寒の禊の午後の気温8度はずいぶん暖かく感じました・・。)
  2日目の2回目の拝神あたりからやっと頭がはっきりしてきて、割と集中してやれました。そして2日目の午後の潜海、いや最もうれしい時。いつになく元気に海岸を走って到着しました。で、大海原で大きな波を浴びていると、「本当に禊がれてる感じだなあ」と感じました。どなたかも言っていましたが、潜海の時間をもう少し長くしていただきたいような・・・。
  2日目の夜の講和の時間、過去には途中で頭がちょっと朦朧としたこともあったのですけど(すみません)、このときはずっと覚醒していて、で、何度か読んでいる宣言書なのですけど、仲々感激したのでした。
  3日目、潜海時、やはりやや肌寒かったんですけど、この日も日の出を拝むことが出来ました。
  そして最後の海岸での終禊祭。この時、私はこれまでに感じたことがない感覚を(それほど何度も参加させて頂いていた訳ではないんですが)感じました。というのは、ひとつには、午後の潜海は2日目に1回やっただけだったので、この時も暖かくて気持ちいいし、「もう1回潜海させて頂きたい・・」という感覚でした。それともうひとつには、こういう感覚、というものは果たして禊の時に感じるのは相応しいことなのかどうかよくわかりませんが、それはちょっと寂しい感じ、とでもいいましょうか、「ああもう終わっちゃうんだなあ」みたいな・・、今回は2日しか参加していなく物足りなかったのか・・、あの往く夏を惜しむみたいな波の音が後ろ髪を引っ張るみたいな・・。そんな感じでした。
  しかし、終禊祭の後で飲ませていただく、盃1杯の御神酒、あれってほんと、「生きてて良かった・・・」と思わせてくれるものですね。
  今回菊の禊としましては3(4?)年前以来2度目に参加させて頂きましたが、とにかく、拝神の時でも、一心不乱に集中してやる(意識がはっきりとしている限り)ことが大事だと、改めて思いました。
  浦野先生、奥様、今回も本当にお世話になりました。そして皆さま、どうもありがとうございました。

●E氏(平成二十三年 菊禊に参加して)
 平成二十三年の菊禊に参加しましたので、感想を述べさせていただきます。
今回の禊は、海も穏やかでのびのびと禊ができたと思います。禊の目的は、直霊の開発と言って、人間本来の神の子としてのみたまを開発し、発揮することにあるとされています。
禊の要訣と心得に、「禊は自性の発輝なり、人格の証明なり、神威の全顕なり」とありますが、禊により自己の本性を発揮し、またその本性がみたまの光なものですから、輝きを発します。人は神の子であり、究極的には神であるので、人格=神格となるのですが、直霊の発輝により、人格(=神格)が証明され、究極的に神としての存在になっていき、神としてのありかたを顕していくのです。
このように禊の目的は直霊の開発であるのですが、人生の目的が直霊の開発なのではありません。我々は、神の子孫であり、この宇宙を修理固成する目的で生まれてきているのであって、人生の目的は修理固成、生成化育にそった事業を行うことだと言われています。現代では、神道系の団体で「地上天国の建設」などと述べられていることが、それにあたるとも言えるでしょう。そのことが、秘事(ひめこと)に「建業立勲(わざをたて、いさおしをたて)」と述べられています。
稜威会は、あくまでも禊の同人の任意の団体であり、稜威会は、みんなで禊をしましょう、という会です。稜威会それ自身が目的となっては禊の本旨からは外れてしまうと言えましょう。さきほどの、究極的には神であるとのことも、ある一人が神になって、それ以外の多数はその人を崇めるというのではなく、全員が神となり神の力を発揮することを目指すのです。川面先生の「祝詞の読み方」に、「国に一人の智者学者あるは国家の恥辱である。国民悉く智者学者でなくてはならない。」と言われています。人はみな神の子であり、やがては皆がそれを自覚し、実践していく時代が来るでしょう。そうなると、職業的な宗教家は不要となり、宗教の教師と信者という分離もなく、そのための教団も不要になっていくと思われます。川面先生は、ご自分の考え方について五百年後に世界の常識となると述べられたと聞いておりますが、簡単に言うと思想界のコペルニクス的転換とも言えると思います。
川面先生は、歴史の三分類として、自然世界、人為世界、神化世界の三つを上げておられます。自然世界とは人間が生まれる前の世界。人為世界とは人間が自然を改造してゆく世界。神化世界とは人間が、直霊に目覚めて人としての神、神としての人として自然界とともに宇宙を運営していく世界です。現在は、人為世界から神化世界への飛躍の一歩手前とも言えるでしょう。先は長く、目標は高く遠いのですが、それを目指して少しでも歩みを続けて生きたいと思っております。

●N氏(「平成23年 夏禊」)
久しぶりに相生の滝に行くことが出来た。
愛用の冠には破れがでている。紐が千切れた褌は冠に変わり、褌は2枚新調。足袋と白いシャツを袋に詰込み、エアコンが壊れた車で向かう。眠気が襲うが、有難く到着。
今回参加人数不明であったが、少なめらしい。暗闇に布団少ない。
幾つもの獣道が通り、かぐわしい愛敬さんの草刈道。
すでに、縄張り整う相生の滝。
やはり、今回も蝶が舞う。
「禊の心得」にて、意識を整える。
滝からの見守りの中、心安らかに終禊。
皆様有難うございます。

●E氏(平成二十三年夏禊に参加して)
平成二十三年の夏禊に参加しましたので、感想を述べさせていただきます。連日三十五度以上の猛暑が続く今年の夏ですが、夏禊中だけは一時的に暑さもおさまり、朝夕などはかえって肌寒いような北軽井沢でした。毎夜雨が降り、褌が乾かない心配をしたりしました。お滝は、人の手の入らない自然の姿であるため、毎年微妙に状態が異なります。今年の水量は少なめで、流れも以前とは多少異なっていました。
三月十一日の東日本大震災および原発事故以来、世界は次のステージに進んだと考えています。例えば「ヨハネ黙示録」によると、七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢などが登場しますが、六番目まで行くと次のステージに上がり、歴史がスパイラル的に進行していくイメージが描かれています。大本神喩には、「世は紫陽花の七変わり」と世の移り変わりの様を表現しています。世界はガラガラと変化し、日本だけは停滞し続けて、一見何も変わらない。これが、神の仕組みでなくて何でしょう。
さて「禊の要訣と心得」に、「全身これ神の大御名に同化し得て、ここに初めて神我一体の妙境に突進す」とあります。人間の意識は、五感を通じて外界からの刺激に反応して動くものであり、言葉で(心で)唱えている神の御名に意識を集中し、自己を突進していくのは、意識の機能としては苦手なはずです。これを敢えて実行することにより、荒身魂の自我を、より高位の自我に移していく、というのが行の主眼であると思います。
ここで重要なことは、森羅万象は天御中主太神から分泌される「稜威」でできており、その「稜威」は、それ自体主観を持っている。すべてのものが「稜威」で構成されているということは、時間空間も、時間空間内のすべての存在も、非存在も、そして言葉も「稜威」でできており、すべてがそれ自身の主観を持っている。言葉について言えば、言葉も「稜威」でできていて主観を持っており、言葉がリンクしている意味の世界も「稜威」でできていて、我々が現在定義し、認識している意味や、今後認識するであろうすべての意味も、それぞれ主観を持っていて、それらのすべてが我々を客観視しているということです。人は神より言葉を与えられており、言葉を持つがゆえに人であり、神に近づくことができる。言葉の最も大きいものは根本大本体で、稜威会では天御中主太神と奉唱しますが、0=1=∞と言う法則があって、無限大は万物、1はそれを帰納し包括した一者、0はその一者が現象化する前の状態を言っています。仮に『前の状態』と言っても、その一者が現象化する前は時間空間の概念は無いので、「前後」というのは説明上のことのみであり、すでに現象化している我々には現象化以前のことは理解の範囲を超えています。従って、おそらくそこには、「同化」という言葉で表現する何かで接近するしかなく、そのためには「みすまる」と表現される霊魂の統一、純化の過程が必要であり、そこには、いわゆる直霊と八千魂の間の「発酵温醸」と言われる心身の交流のイメージと意識の訓練があるのかと推察しています。今後とも一歩ずつ進んで行きたいと思います。諸先生、諸先輩のご指導、ご鞭撻をお願いする次第です。

●E氏(平成二十三年桃の禊に参加して)
平成二十三年の桃の禊に参加しましたので感想を述べさせていただきます。
三月十一日の東関東大震災と福島原発事故により時代は変わったと感じます。もはや以前の生活と生活感情には戻れません。
今回の禊で、平成元年の寒禊を思い起こします。と言っても私は平成元年の桃の禊から参加しており、平成元年の寒禊は参加しておりませんので、稜威誌に掲載された記事に基づくものです。平成元年は、昭和六十三年一月七日に昭和天皇が崩御された翌日の一月八日から始まります。そして当時の寒禊は、一月十五日(当時の成人の日)の前後に行われており、昭和から平成に変わった直後であったのです。当時の先生方は、昭和の末期には昭和天皇陛下のご平癒のための禊をやられたようなことを聞いております。また、平成になってからは大嘗祭成就のための禊もなされていました。そういう状況であったので、平成元年寒禊の感話会では、藤田先生が「神は稜威会に何をせよと言われるのか?」と問いかけられています。その問いかけに対する答えは、稜威誌には出ていませんが、参加者のそれぞれが、その問いかけを心に受け止めたものと思われます。
今回の東関東大震災と原発事故を間近に感じて、私も「神は稜威会に何をせよと言われるのか?」と自らに問いたいと感じていました。桃の禊の開始の挨拶で、浦野先生が「被災者や犠牲になった方の祓いということが大切である」と仰いました。私も実にその通りであると感じています。今回の災害はずいぶん大きな邪津霊であろうと思いますが、しかし直霊と比べれば次元が違うので、どんな邪津霊でも直霊には勝てないであろうと思います。祓いの基本原理はそこにあるのではないでしょうか。また、逆にいえばどんな小さな邪津霊でも直霊でなければ勝てない。荒身魂の意識は、丸めとられてしまうのではないか、とも思います。
川面先生の教典や全集を拝読すると、直霊の発輝には「霊魂の統一」ということが大切だと書かれています。言い換えると「みすまる」ということです。これにより、身体の内部の諸次元を統一し、「誠の結晶体」になる道が開けるとなっており、それは、振魂(瞑想)と伊吹(呼吸)により達成されるということでしょう。そこで、「発酵?醸」というキーワードが重要になってくると感じます。
今回の禊の海は厳しいものがありました。高くもない波に、まるで「人間よ奢るなかれ」と、戒められているようで、何度もなぎ倒されました。またしかし、浜の少し違う場所では波のほとんどない場所も、見つかったりしました。もちろん波がない場所には、波がないだけ別の厳しさがあるかもしれませんが、ちょっと視点を変えれば自然の別な面が見えてくるということを示されたのかと思います。
 今後もいろいろな事が出てくるのでしょう。私は私としてやれることをやっていければと考えています。

●K氏(寒禊に参加して)
これから起きる大きな変化の中を正しく進むためには、「みたま磨き」がたいせつだと聞きました。そこで、自分の生きてきた姿勢をふりかえってみた私は、正直言って見たくないものを見るような気持ちになりました。
なぜなら、いままで私は社会の矛盾分析や批判には達者でしたが、こと、自分のこととなると「棚上げ」しており、「まさか自分がこんなに汚れていた」とは認めたくなかったからです。
私の心の奥底にはブラックボックスがあり、その箱からの指令が私を動かしているようでした。そこにあるのは、(1)怠ける心、(2)甘やかす心、(3)自分が得したらいいという心、(4)思いやりの少なさ、(5)意志の弱さ…などです。
人生において、また、日常生活において、何かを選択するとき、そこには基準があるものです。私にとっての基準とは、前述した5つの要素であることがすごく多かった。一つ一つの選択、数を重ねる度に、それはクセとなって深く染みついていたようです。
クセとは後天的なものです。境遇や環境などの要因もあります。しかし、くりかえしクセに従っていると、自分がクセという曲がった定規を当てて出来事を選択していることにさえ気づくことができません。もし、気づいたとしても、変えることはなかなかできません。クセは自分に目先の安楽・快楽をもたらしているからです。禁煙や断酒がむずかしいのと似ています。(でも、たぶん目先の利得と引き換えに、宇宙から大きな借りをしており、いつか苦痛という形で返済を迫られることでしょう。汗)
「このままで良いのだろうか?」「頭で分析していても実際、行動に移せないのはなぜだろうか?」
そんな折、禊ぎの大家である川面凡児先生直伝の禊ぎ会があることを知り、寒禊ぎに初めて参加させていただきました。あえて、厳冬の海で禊ぐ……という行いは、安楽・快楽とは真逆にあります。あえて、安楽・快楽に背くことが、自分には必要だと感じたのです。
真冬の夜明けの遠州灘。寒いなんてもんじゃありません。海から上がって、寒風を全身に受けながら「鳥船行」をするときの皮膚感覚。寒さを通り越して「熱くて痛い」と感じるほどです。
しかし、道彦の浦野先生は齢80近いお身体で、なおもかくしゃくとして先導してくださいます。諸先輩も、真剣ひたむきに道を追求されています。それにしても、先をゆく諸先輩がいらっしゃるというのは、心強いものです。ありがたいです。そして、なにより神様にみつめられながら「行」に励むことは、日頃の曲がったクセをつかんでグッと直そうとするかのようです。暖かい布団でもっと寝ていたい気持ち、裸で砂浜に飛び出したときの引き返したい気持ち、海から出た寒さの中で火に当たりたい気持ち、自分の中にある安楽や快楽を求める気持ちを乗りこえて行かなければなりません。
5日間の「行」の間は、白いハチマキ(冠と呼びます)をずっと結んでいます。最終日の直会(なおらい=食事)をいただいたあと、冠を外します。そのとき、意外にも「ぁあ、終わったんだな、また俗な自分に戻ってしまうんだな」という寂しい気持ちになりました。「ぁあ、これで晴れて娑婆に戻れる。せいせいした」と羽根を伸ばしたくなるならわかりますが、そうではなく「冠をとって俗に流れてしまうのは情けないな」と感じたのです。
本当は、行が終わってからが、個々の日常において、見えない冠をつけて過ごす本番なのかもしれません。見えない冠ですから、他人様には見えませんし、自分の眼にも見えません。ですから、ついつい、冠の存在を忘れてしまい、50年間培ってきたクセに逆戻りしてしまいがちです。「ぁ、いかん、いかん」。
みずからを奮い立たせていかねばなりません。諸先輩の姿がまぶたに浮かびます。ふんどし一丁で夜明け前の海に駆け込む心意気、一心に拝神するひたむきさ、人として神として道を歩まんとする決意。すべてが、日常生活にも応用できる神髄です。神々も、5日間だけしおらしくて、あとは元に戻るような人物をお喜びにはならないでしょう。普段から見えない冠をつけて、よくない心のクセを直し、悪を善に転換させて、歩んでいきたいです。
最後になりますが、浦野先生をはじめ諸先輩のみなさま、配慮に欠ける私に多くの気づきをくださり、ありがとうございました。また、祖神の教えを今に残してくださった川面凡児先生の存在に、心より感謝を申し上げます。

●S氏(二度目の寒禊を終へて)
寒禊の感想を申し上げます。不定期に夏や菊に参加してゐた自分でしたが、寒禊は四季の中でも特に胆力を要するものであると捉へ、ならばと昨年に引き続き二度目の参加をさせていただいた次第です。
自分は即応予備自衛官であり、さらにまだ三十路を過ぎたばかりでありながら痩せ型で体力に劣る面を以前より痛感してをり、この改善に試行錯誤を続けてきたわけでありますが、寒禊は特に不調原因の発見を容易にするものであるといふのが、昨年今年と参加して得た実感です。
これは米本先生の指導並びに治療もなくてはならない要素ではあるのですが、しかし昨年などは皆様が黙々と修禊に励まれてゐる中、自分のみが冷水に飛び上がる等明らかにおかしい面がありました。かういつたことは禊のやうな状況にならなければ分かるものではなく、この非日常が様々な曇りを取り払ふものであると感じます。昨年の禊後に個人的にMRI検査を受け腰に慢性のヘルニアが見付かつたことで、今は自分としてこの見へない力に畏れを抱ひてゐるものです。
禊には様々な力が作用してゐますが、恐怖心といふものを打破して水に突つ込むといふ形態が人生の山を乗り越えるためにとても必要な要素ではないかと考へます。切つ掛けがなければ何も始まらないし、分からないものです。初めといふものは如何しても躊躇するものであり、その点で寒禊の実行が肉体面さらには精神面の強化にも繋がるものだとつくづく感じました。

また今回天候は恵まれたものになりましたが、自然への畏敬といふことも修禊のなかで底流にあるものといつも感じてゐます。神道に於いて山や海、川それ自体が神であるといふことはよく知られてゐますが、実際に大海原を拝することで如何に我々が自然の恩恵に預かつてゐるかといふことを体感します。
自然は神であり、単に敬ふのみならず、実際の生活上も大切に大切に宝物を扱ふが如く接しなければならないものです。しかしながら我々人類はここ百数十年来、山を崩し海を汚しと遣り放題であり、既にそのために大変な環境異変(神の怒り)を引き起こしてゐます。
砂浜には数こそ多くありませんでしたが打ち上げられたペットボトルやその他人工的なゴミが散乱してゐました。神であるところの海に何故ゴミを捨てられるのでせうか! これらのことは大変な問題であります。環境問題とは詰まるところ人の意識によつて決まるものであり、その点何とかならないかと禊をしつつ強く感じました。
今後は自然を守る為具体的に働いて参りたい、それが御神慮に適ふものであると確信します。
人間は自然の前では何の力も持たぬことをよく自覚し、これからは特に謙虚に生きてゆきたいと思ふところです。

●E氏(平成二十三年寒禊に参加して)
平成二十三年の寒禊に参加しましたので、感想を述べさせていただきます。
今回は天候に恵まれ、毎朝太陽を拝めて大変に良い禊でした。朝の海岸の気温は0度に近い日もありましたが、どことなく春の気配が感じられ、肌の寒さとはうらはらに気持ちの良い禊ができたと感じています。
初日午後の始禊祭と二日目の午後の潜海の時、へんな話ですが、海岸のひもろぎと注連縄の周りが作り物というか舞台装置のように感じました。空と海がスクリーンのようで、それをちょっとめくったら、後ろでは大勢の神様が裏方として働いておられるような感じがしました。やはりこの世のことは夢の如しということでしょうか。夢なら夢で、夢らしく生きてみるのも良いかもしれません。
さて四日目の講話では、川面先生の「祖神垂示の霊魂観」から、「大祓戸大神」の解説の部分を抜粋して読ませていただきました。稜威会では祓いの祭に、十七柱の神々をお招きして行事を行いますが(「霊魂観」の解説では十六柱)、表の四柱と裏の十二柱の関係、それぞれの神のお働きが詳しく述べられております。祓戸四柱の神にかかわる表の行事は幣(ヌサ)の行事であり、十二柱にかかわる裏の行事は、振魂から入っていく鎮魂と瞑想の行事とされています。裏の行事の内容は、息吹きの段階とその活用であり、祓禊の行事の中で呼吸がいかに重要かが説かれています。ここで「発酵?醸」というキーワードが出てくるのですが、この言葉は川面先生の著作のいろいろなところに登場し、呼吸法によっての直霊と八千魂との間の相互のやり取りが説明されます。直霊の開発は、別な見方をすれば八千魂の開発であり、霊魂の発酵により八千魂と直霊が成熟する過程ともとらえることができるかもしれません。おそらくこの言葉に川面先生のある種のノウハウが入っているかも知れないと感じています。
 このようにして行を進めていくのですが、川面先生は人間の肉体の構造上、霊的に進歩するように創造せられていると述べられており、励まされます。そして、究極的には罪穢れというものは実在しないと考えられます。だからこそ聖者は言葉によって罪穢れを祓ってしまう。祓うというより赦すという言葉で、罪穢れを消去してしまう。根本の世界は直霊の世界であって、そこには罪穢れは実在しないということになると思います。祝詞のあちこちにも、そのように感じられる部分があります。例えば大祓祝詞に、天津祝詞の太祝詞を唱えた後、四柱の神がお働きになる前に、天津神国津神が聞こし召したまうと罪という罪は無くなってしまうと書いてあります。直霊に見直し聴き直しという言葉も、直霊の世界に罪穢れは無いので、見直し聞き直しするだけで罪穢れはなくなるのかと感じます。そんなことを思いながら寒禊を過ごして来たのですが、夢のように思うだけであって、川面先生の言われるように、体察体験体得体顕という段階を踏んで、思うことを実現するのは至難の技と思えます。薄皮を一枚ずつ剥がしていくような遅々とした歩みですが、一歩ずつ進んでいくしかないと感じております。

●S氏(「寒禊に参加して」)
今年も四日目までの参加でご迷惑をお掛けしましたが、無事寒禊を終える事が出来ました。 道彦を務められた浦野先生をはじめ皆様に感謝申し上げます。
今年は寒さに怯まずに臨みたいと考えていましたが、幸い余計な事を考えずにすーっと寒禊に入れたように思います。 又、合宿中は天候にも恵まれ、毎朝神々しい日の出を拝めた事が思い出残りました。
自身の体験としては・・・
① 参加されている皆様の掛け声を聞いて元気を貰い、自分の掛け声にも自身が勇気付けられ、自然と駆け足になるのが実感できました。
② 初回の潜水時だけでしたが、海岸に出ての天鳥船で、やはり自分の掛け声と共に胸が暖まるのが実感できました。
③ 私の場合、祝詞を読む際、お腹をちょっと突き出して発声すると、体の中で音が響く感じがしました。
これらはどれも薄っぺらで頼りない感触ですが、今後修練を進めて行く中で何かの手掛かりになればと思います。
最後に、今回も皆様と寒禊に参加し成就する事ができて、改めて神様に感謝申し上げると共に、来年も皆様とこの日を迎えられるように、この一年を健康に平和に過ごしたいと思います。 

●E氏(平成二十二年菊禊に参加して)
平成二十二年の菊禊に参加したので、感想を書かせていただきます。
今回の禊は、バラエティの富んだいろいろな天候に恵まれ、禊としては収穫の多いものだったと感じます。毎年この時期は台風の季節で、以前は台風が遠州灘の沖合いを通過中に潜海したこともありました。今年は台風は無かったのですが、潮の流れに特徴があり、流されやすい状態の日もありました。潮の流れが強かったり弱かったり、波が荒かったり無かったり、海の底が平らだったりえぐれていたり。何年も同じ場所で禊をしていて、毎回、海の状態が違うということは、自然界のバリエーションの大きさを物語っていると思います。「大海の広きを見ても思い知れ、禊する身の心いかにと」(川面凡児)。
禊は、ある意味で自然との対話であり、自分自身の中の「自然」を蘇らせて、大自然に同調させ、大自然と自分自身とのバイブレーションの交換ができたらベストかと思います。「真理とは、大自然そのものの姿を言う」とは、世界救世教の岡田茂吉氏の言葉だったかと思いますが、まさにその通りであり、神道は大自然そのものに肉迫し、大自然の心を神の心として生きていく道ではないでしょうか。
現代の大都会の人工環境の中で生活していようとも、生きているのは人間。人工環境はほんの表面だけで、中身は昔と同じ人間です。そう考えれば、今も昔も変わらないものが続いているので、その中に神道の姿があると言えるでしょう。
私は、稜威会の活動に参加していて、稜威会の独特の時間感覚を感じます。それは、何と言うか、ある意味で時間を超越していると言うか、禊をやっていると、いつの間にか五年十年二十年と経ってしまったな、といった感じがします。その間、稜威会にも社会にもいろいろな変化があり、世界は進んでいるのに、自分と禊との関係、神様との関係etcは、たぶん変わらずに、少しずつ自覚が開けてくるような感じです。こういう気持ちの中で禊をやっていて、昔の人も将来の人も、海の波も潮風も、夜明けの月も太陽も、すべて調和した姿を眺めていると、本当にあらゆるものは神の現れであるし、神様そのものであると感じます。

●E氏(平成二十二年夏禊に参加して)
平成二十二年夏の禊に参加しましたので、感想を述べさせていただきます。今回は参加者が二十二名と多く、初心者の方もおられ、少し途惑われたようでした。もともと稜威会は、説明よりも実地に体験すると言う気分があるので、私自身も入会当初に特に説明を受けた記憶も無いのですが、今の時代、そうも言っていられないのかもしれません。四日目には教典の解説をさせていただき、稜威会の行にこめられた意味を少しだけお話しさせていただきました。
私は、川面先生の思想が世界史的な意義を持っているものと考えており、川面先生の思想の真義をより深く理解しつつ、これを広める努力をしていきたいと願っております。
世界の宗教思想を概観するに、古代においては救済という考え方は少なく、神は他民族との戦争における勝利や農耕の豊穣を祈る対象でした。その守護の範囲も自分たちの部族や自分たちの民族、階級などに限られていたと考えられます。その後、西暦紀元前後に世界宗教の基となる思想が現れました。これは人類の霊的救済の可能性を説いたもので、その思想は当時としては画期的なものだったと考えられます。その基礎となる世界観、人間観も以前のものとは大幅に拡張されています。世界宗教は、人類の霊的な救済のために教団を拡大し、それが世界の救済を早めるとも考えられたと思われます。しかし当初は、その教団の信者になったものが救われると言った制限がありました。
救済を説く宗教は、救済が完了した時点で存在意義を失います。救済を超える思想を持つものだけが、次の時代の指針を示すことができます。次世代の宗教思想は、そのようなもので無ければなりません。
さて、近年に至り世界宗教の統合を図るような宗教思想がいくつも現れています。
特に日本では、神道が「人は神の子」という思想を持っていることから、神道思想をベースとして、修理固成の現代的な言い換えとも言うべき「地上天国の建設」をスローガンとして活動していたりします。それらは、現代の新宗教として大教団をかかえているものもありますが、「教団システム」というものは、もともと二千年前に世界宗教成立当時に考案されたシステムであり、次の世界が出現したときに、教団システムのままで対応できるとは考えにくいと思います。そういう意味では、川面先生が、宣言書の中で職業としての神官・僧侶等の不要論をとなえ、また大衆教団からの誘いを一切断り、清貧を貫かれたのは非常な卓見であったと思います。
今より先の世を思っても、修行の足りない身では何も結論は出ません。神に任せて進むしかないと思います。今後とも皆様のご指導をお願いするしだいです。

●H氏(夏禊感想)
平成二十二年夏の禊に初参加させて頂きました。
一日禊の体験もなく、いきなり四泊五日の合宿に参加した私には、滝行をはじめ、全てが未知の体験で、正直最初は辛かったです。
体が慣れてきて楽になってくると聞いていた三日目の中日、私は滝で持病からくるパニック発作で貧血をおこしかけ、地元の神社参拝はできませんでした。
今だから言うと、私はあの時、「具合が悪くなったのだし帰れないかなぁ」と考えていました。
診て頂いた米本先生をはじめ、経験豊富な先生方には、すでに気持ち負けしていたのを見抜かれていたでしょうね。
周りの方の励ましや、頑張っている他の方々の存在があって、あの時乗り越える事ができましたが、同時にはじめて私は自分に逃げ癖がついていた事に気づきました。自分の心的状況が大きく反映するこの病気が体にもたらす害によって、再び精神に与える影響を恐れてそこから目を背けていた事実に。
「体は疲れていても、精神は疲れていないでしょう。そんな時こそ腹の底から声出さなきゃ自分の限界は破れんよ。」
鳥船の最中、私の胸を打った米本先生のお言葉です。
自分に根性と忍耐が大きく足りていない事は自覚していたつもりでしたが、予想以上でした。
あの時程自分に、底力なるものがないことを痛感した事はなかった気がします。
そして、浦野先生の、「もし今天災がきたりしたら、今の人たちは乗り越えられないでしょうね。馬鹿馬鹿しい事が実は馬鹿馬鹿しくないんですな。」というお言葉。
これだけあちこちに地震があったというニュースを目にしていながら、どうして私は自分を無関係だと思っていたのか不思議で仕方ありません。
考えないようにしていたのか、考える必要もない環境にいたのか。
禊の凄さ・素晴らしさを感じたのは、むしろ合宿が終わってからでした。
丹田のパワーとでもいうのでしょうか。正しく底力がついた感じで、かつてなかったほど、生の充実感を感じた気が致します。
そして、一番不思議なのは、あれだけ辛かった合宿がもう懐かしくてたまらない事です。
あの時は、自分がいた環境に戻りたくてたまらなかった筈なのに、今はもう滝に入りたくてたまらず、先生方や皆様と過ごした時に戻りたくてたまらないのです。楽しかったとう感想しか残っていないのです。
本当に貴重な経験と、素晴らしい気付きをもたらして頂きました。先生方をはじめ、御一緒させて頂きました皆様、本当にありがとうございました。是非また参加させて頂きたいと思いますので、その時はまたよろしくお願い致します。

●M氏(夏禊感想文)
「なんておいしいジャガイモ!?」
中日に山頂で頂いた昼食のジャガイモがあまりにもおいしすぎて、涙がこぼれそうになりました(笑)今まで、私は数え切れないくらいのジャガイモを食べてきたはずですが、なぜこの時の味覚は、普段の数倍にも感じられたのか?いつもとは違うシンプルなリアクションの数々によって、本来の無垢な感覚を再認識し愛おしく感じる事が出来ました。
 感動を味わいたければ、有名レストランに行くよりも数日間、玄米粥にするだけで、キャラメルや茹でたジャガイモが最高の贅沢に感じられるなんて、感動!(そして安上がりで健康的)「人間の体って、素晴らしいなー」と・・・この世界は、ひょっとしたら目的の反対側にも愛が潜んでいるのかもしれません。
 早朝の潜水は、水から上がると、体温が下がりブルブルと震えてしまいます。そんな時、近くの苔むした大きな石にハグをするのです、土の香りがして、ほっこりと温かくて癒されます。石に体を委ね、耳を澄ましていると、いつの間にか石とも苔とも同化しているような不思議な感覚に包まれるのでした・・・「あれ、私の体の境界線はどこに行った?」
 拝神中、自分の発声する声の波長が、周りの方々の波長と溶け合って響き合う空間が好きでした。慣れない正座で足が痺れ、眠気と疲れが出てくるほど、ナチュラルな意識が表面に現れ色々なイマジネーションが湧いてきます。
 自然の中で取り戻した、内なる声を大切にしたいと思います帰宅してからは、イマジネーションの赴くまま、ワクワクするような活動を実践中です。どうやら私の中の私は「人に役に立つのが好き」なようです。そんな私達を見守って下さる大いなる存在に感謝しつつかんながらの生き方を日々楽しみたいと願います。
 自然に触れ、祈り、学ばせて頂いた稜威会に感謝致します。
「ありがとうございます」

●A氏(夏禊の感想)
初めての禊を体験しました。一日体験もすることなく、飛び込んだ5日間の夏禊はとても辛く感じました。3日目が一番辛く帰りたいという気持ちになりましたが、誰もが不平不満を言うことなく、こなしている姿に自分の忍耐のなさや器の小ささを実感してしまいました。それでも素晴らしいと思う貴重な体験をたくさんさせていただきました。どんなに疲れていても、相生の滝に行くとエネルギーをたくさんいただき、元気になることができました。腹の底から声を出すということの大切さも地のエネルギーをいただき丹田という源が強くなる気がしました。4日目の夜は帰れる嬉しさで一杯だと思っていたのに、不思議と心は落ち着いて、“あぁ帰るのか”という感覚でした。東京駅に着いた時には”帰ってきた!“という嬉しさより騒音と情報量の数々に”帰ってきてしまった“と思っていたのです。振り返ると何だか夢の世界にいたようでした。3日目の私は腰の痛さと胃の気持ち悪さを米本先生に訴えました。先生は私のリンパの流れの悪さをすぐに見抜き解消してくれました。私は痛みのあまり泣いていると「生ぬるい生活してきたから辛いのか」と仰いました。私はその時は痛いお言葉だと受け取っていましたが、帰ってからそのお言葉をとても実感しました。そして別の場で仰っていた「自分で乗り越えようと思わなければ自分の限界は超えられない」と言う言葉もハッとするお言葉でした。どちらのお言葉も今の私の支えになっています。また、感話会で参加した動機をお話した夜、浦野先生がその内容について色々助言をしてくれました。「何でも自分でやらなければ駄目だよ」と仰ってくれました。それは禊から帰った翌日に一騒動あったのですが、その浦野先生のお言葉のお陰で自分達の力で乗り切ることができたのです。今までの生活が知らず人の力に依存していたことが分かりました。とても大切な気付きを与えていただきました。浦野かずこ様は、なかなか滝に慣れない私の手を取り背中をさすりながら「大丈夫、いける!いける!」と後押ししてくださいました。その応援のお陰で全ての滝にあたることができました。小心者の私がこの夏禊に来れたことは、とても大切な一歩でした。そして全ての滝に入るという勇気もまた大切な一歩でした。その一歩一歩の体験が帰ってからの騒動を乗り越える強さになったのだと思います。もう来ないかもと思った5日目でしたが、帰ってから数日…滝を恋しいと思っています。本当に夢の中にいたよな不思議な5日間でした。感謝と感動で一杯です。禊とは心身を強くする大切なものだと実感しました。素晴らしい体験をすることができて本当に嬉しかったです。稜威會の皆さまが伝えようとしてくださる心身の持ち方を微力ながら少しでも受け継ぎ、伝えていけることができましたら嬉しいです。貴重な体験の数々を本当にありがとうございました。

●O氏(夏の禊に参加して)
 今回初めて夏の禊に参加させて頂いた。参加している間の感覚としては、大半の時間は一言で言えば、「苦しい」というものであった。何がそんなに苦しかったかといえばまず、身体的苦痛が大きかった。これは毎回の禊行に伴うものではあるが、感話会の時にもお話させて頂いたのだが、特に今回は、まず大胸筋・背筋の痛みが元々若干あって、そして坐るので当然足が痛くなり、慣れてなかったせいかスリッパずれを起こして歩行困難になり、最もであったのは最初にお滝に当たった時に、(後頚部~後頭部の筋肉のケイレンのせいか)後頭部が痛くなったことであった。
 それから、多くの知らない人たちの中で過ごす、という緊張感もある。
 また、普通の生活の中ではほぼ普通に行なっている、洗面とか歯磨きとかトイレに行くとか、寝るとか、そのような日常の動作に制約が加えられる、ということもある。
 しかしそのような辛さ、苦しさというものは、これはもう“修行”、“難行・苦行”(とそこまでではないが)というひとつの業の期間の中のことなので、仕方ないことで、当然なことなのでもある。
 また、そういう辛い思いがあっただけに、終わった後の爽快感、充実感はまた格別なものがあった。毎回拝神などが終わった後に、「おめでとうございます」というが、これまではなぜそう言うのかよく分からずそう言っていたが、今回最後の滝行が終わった後では、本当に、その「おめでとうございます」という感じが(修行を全うすることが出来てよかったね、という)分かった。
 今回も本当にどうもお世話になりました。有難うございました。

●F氏(「平成22年夏禊に参加しまして」)
 平成二十二年八月四~八日までの日程で禊研修に初めて参加させて頂きました。慣れない正座での拝神で、二日目の夜には、痛みに我慢ができず、最後までできるかな?という思いがでました。しかし、二日目まで続けられたのだから、続けられないことはないと思い、一日一日精一杯取り組んでいきました。人間の適応能力というのはすごいもので、残りの3日間はあっというまに過ぎていきました。
どちらかと言うと日常この世的なものにまみれて仕事や生活をしていて、霊魂が穢れていたのが、今回の禊研修を通じて、その穢れが取れていくのが感じられました。また、日頃の運動不足から、肉体が疲れやすかったのですが、禊実習、鳥船、お山登拝や日々の禊場までの運動等により、心身を鍛えなおすことができたと思います。
 今回の研修には、先生方を含めて総勢二十二名の方が参加されていましたが、生活を共にし、禊を通じて、鳥船をしているときは、とても一体感が感じられました。最終日である五日目に禊場に向かう際には、ちょっとした神秘体験(内なる声によるアドバイスを頂いた。)もしました。さらに、禊研修が終わって解散した後、㈱ピュアーライフから今回の研修に参加した四名で群馬県甘楽郡妙義町にあります妙義神社に正式参拝させて頂きました。当社の社長であります菅家一比古先生が懇意にされています川島宮司に祈祷をして頂きました。川島宮司の祈願は素晴しく、声に透明感があり、天にも届くような声で、祈願をして頂きました。そこでの体験ですが、祈願が始まってから、しばらくすると拝殿のほうから、熱いエネルギーが流れ続けるのが感じられました。他の社員も同じような体験をしており、これも禊研修によって、穢れが祓われ、敏感になっていたために感じられた神のエネルギーであったと思います。
 今回の研修で学んだことは、私達は普段いかに神から離れた状態で生活しているかということです。本来神の分け霊魂であり、神そのものの性質を宿す存在であるにもかかわらず、そのことを忘れ去り、能力を発揮することもなく、一見平和にみえる日常生活の中にその精神を埋没させてしまっている、ということです。
 大井会長の話にありましたが、日本の今の政治は、左翼思想家である無神論者が国家運営をしている状況です。それらを選択したのが、国民でもあるわけです。天上界はこうした状況をよく思っているはずがないと思います。
 人間の本質は霊魂でありますから、そこに無限の可能性を秘めているはずです。研修の中の講義で教えて頂きました「楽していては、自性を発揮することはできない」ということ
「自性の発揮が、天之御中主神の発展、宇宙の発展に繋がっている」ということを自覚し、今後の人生に活かしていこうと思います。
 指導して頂きました浦野先生夫婦、米本先生、大井会長、その他講師の方々にとても感謝しております。ありがとうございました。

●A氏(平成22年 夏禊記)
 縁がある。禊の先輩は「神に選別されている」と言う。相生之瀧の大神に呼ばれているのかもしれない。戦後今泉定助先生の業績を残すために出来た「日本大学今泉研究所」の所員とその日本精神講座の学生達も、昭和45年頃から60年頃にかけてこの瀧に禊して、その名を記した足洗い用桶が、この禊道場にいまだに残って今回参加の若い女性達が使用している事も縁である。禊を漬物に例えては、いけないかもしれないが、若い人の禊は一夜漬けの様に爽やかであり、中高年のそれは古漬けの沢庵の様に味わいが深い。『大日本世界教教典』「稜威會宣言」に「神より出ずる者は神に還るを知れ」と教えている。人生二毛作を歩む者としては、「人神合一」としての禊に縁として、あと半分の道を歩みだしている。



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